梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「女優と詩人」(監督・成瀬巳喜男・1935年)

 ユーチューブで映画「女優と詩人」(監督・成瀬巳喜男・1935年)を観た。戦前(昭和初期)日本の夫婦コメディの佳作である。主なる登場人物は演劇界のスター女優・二ツ木千絵子(千葉早智子)とその夫で童謡詩人の二ツ木月風(宇留木浩)を中心に、隣家の保険勧誘員・花島金太郎(三遊亭金馬)、その妻・お浜(戸田春子)、小説家志望の能勢梅堂(藤原釜足)といった面々、タイトルに主題歌ならぬ「主題落語・三遊亭金馬」とあるのが、何とも異色で興味深かった。
 千絵子は夫を「ゲップー」と呼び捨てにし、掃除、洗濯、炊事、買い物を一切、月風にやらせている。それというのも、千絵子は人気女優として稼ぎまくり、月風の収入はほとんどゼロに近い。2階建ての借家の家賃、生活費のすべてを千絵子が賄っているとすれば、一家の主人とは名ばかりで、頭が上がらない。隣家のお浜やクリーニング屋から「大変ですねえ」と言われても「軍隊に入ったと思えばどうってことありません」と頓着しない月風の様子がどこか飄々として清々しかった。今日も2回では千絵子が芝居仲間(三島雅夫、宮野照子たち)と稽古に余念がない。一息つくと千絵子は「ゲップー」と呼び、「チェリー、バット、ホープ、それにみかんとお芋を買ってきて頂戴!」と命令する。タバコ屋に赴いた月風は友だちの下宿人・能勢梅堂に遭遇する。彼は部屋代を半年も溜め、おかみさん(新田洋子)に合わす顔がない。やむなく2階から屋根伝いに脱出を図る始末であった「借金で首が回らないというが、自分の場合は、借金で階段が降りられない」と笑い飛ばす、藤原釜足の風情が絵になっていた。貧乏を苦にもせず「会社は辞めて、大衆小説のコンクールに応募する。賞金は5000円だぞ」と言いながら、月風が買ったタバコを一本ちゃっかり頂戴する。しかし、その様子をおかみさんに見つかり、どこかに遁走してしまった。月風が家に戻ろうとすると、おはまが「お向かいの家に若夫婦が引っ越してきましたよ、今晩はお蕎麦が食べられますね」などという。様子を見ると家財道具はゼロ、掃除もできない。月風は我が家から箒、バケツ、雑巾を貸し出したが、買い物から帰らずに油を売っている月風を千絵子は「ゲップー」と呼び戻し、「何、おせっかいなことしてるのよ、これから出かけますよ」と仲間と外出してしまった。夜、ひとりで干物を焼いていると、隣家のおはまが誘いに来た。「家の主人が一人で飲んでもつまらない。となりの御主人を呼んでこいと言うんです。その干物を持っておいでなさい。あら、いい物があるじゃないですか」と言い、戸棚の缶詰まで持ち出す。三人で酒盛りが始まると、おはまが金太郎に曰く「お向かいの若夫婦、保険に入れなさいよ」。途中で座を外し金太郎は向かいの家に・・・、まもなく商談は成立、金太郎は欣然と戻って来た。「めでたい、お祝いで今夜は、とことん飲みましょう」。月風は童謡のレコードを取ってきて、金太郎が踊り出す。
《もしもしお山のタヌキさん あなたの得意な腹鼓 ポンポロ鳴らしてくださいな》という歌声に合わせて、三遊亭金馬が踊る景色は絶品であった。ビールを1ダース空けた頃、月風は(金太郎も)泥酔状態、家に帰ってからも千絵子のプロマイドに日頃の鬱憤を当たり散らす、帰宅した千絵子は呆れて、月風へ蒲団を放り出しそのまま寝てしまった。
 翌朝、千絵子はまだ寝ている。いつものように月風は朝食の準備にとりかかる。隣のおはまがダイコンの煮付けを持ってやって来た。まもなく始まる千絵子の公演チケットを貰いたかったが、「それは大家さんにあげてしまいました」と月風が言うと、当てが外れ、ダイコンの容器を早々に取り戻して帰ってしまった。やがて「ゲップー」という千絵子の声、「私たちケンカをしたことがないのでどうしても感じが出ない、本読みを手伝って」と言う。月風は鍋をコンロにかけたまま相手役の本読みに・・・。その内容は夫が妻に無断で友だちを居候にしてしまう場面、「どうせ空いている2階だから貸してやってもいいではないか」「いやなことだわ。貸すというのはお金を取って住まわすことを言うんだわ」「だってかわいそうじゃないか。あの男だって金が無くて困っているからこそ頼みに来ているんじゃないか」「あんたの友だちときたら一人だってろくな人はいやしない。みんな風車のピーピーといった人たちばかりじゃないの」「困っている時は相身互いだ。居候の一人ぐらいおいてやると言ったって、それがどうしたんだ」「大きなことを言うもんじゃないわ。毎月ここの家賃は誰が払っていると思うの」といった口喧嘩が次第にエスカレート、やかんの蓋、枕など辺りの物を投げ合い、終いには打擲の音まで聞こえた時、ひょっこり梅堂が来訪した。ただならぬ状況に梅堂は驚き止めに入る。「まあ、二人とも冷静に、落ち着きなさい。奥さんケガはありませんか」。しかし、芝居の稽古だと分かり大笑いしたのだが、台所から焦げ臭い匂いが漂ってきた。コンロにかけていた飯は黒焦げ、千絵子は「梅堂さんと丼でも取って食べなさい」と言い2階へ、芝居の稽古を続けるらしい。梅堂が訪ねてきたのは、引っ越しの相談、とうとう下宿を追い出されるという。「君の家の2階を貸してくれないか。原稿料が入ったら払う。別に千絵子さんに相談しなくたっていいだろう?君はこの家の主人なんだから」。月風は「えっ!」と戸惑ったが《主人》という言葉を聞くと、そうだ!と思ったか、承諾してしまった。梅堂はすぐさま「それでは荷物を取ってくる」と出て行く。そこに降りてきたのは千絵子、梅堂の要件を聞いて、怒り出した。さっき稽古をした芝居のセリフそのままに、今度は本当の夫婦喧嘩が始まる。千絵子に「ここの家賃は誰が払っていると思うの、みんなあたしよ!男なら男らしく稼いで居候の100人でも200人でも養ってみなさいよ。あんたの原稿なんて屑屋に売った方がよっぽどお金になるわよ」などと毒づかれて、月風は「何だと!」と激高、千絵子を張り飛ばした。「痛い!」・・・、その場面に梅堂が荷物を抱えて戻って来た。「やってるね」などと笑いながらその様子を見物する。物音に気づいた隣家のおはまがやって来ると「奥さん、なかなか面白い芝居ですよ。ここで見物しましょう」。しかし、その芝居は芝居にあらず、梅堂が居候を決め込んだことが原因だったことが判明する。その時、向かいの家の気配が慌ただしい。金太郎が駆け込んできた。「おはま、大変だ。昨日の夫婦、心中したらしい」「まあ!生命保険はどうするの、心中しそうかどうか見ればわかりそうなもの、本当に呆れたよ」と怒り出し、家に戻っていったかと思うと、たちまち夫婦喧嘩が始まった。玄関先には箒が飛んでくる。蒲団が飛んでくる。
 月風は梅堂に言う。「友だちとして言いにくいことだが、君の居候の申し出は、主人としてハッキリ断るよ。家賃はみんな千絵子が払っているんだ」「家賃を払うのが誰だろうが、主人の君から断られれば致し方ない。申し出は潔く撤回するよ。奥さん、あなたの芝居の居候は結局どうなるんですか」「懸賞金が3000円、転がり込んでくるんです」「そうですか、ボクの方は5000円だけど、どうなるかはわからない」。一方、金太郎とおはまの喧嘩も山場を迎えている。掴み合いながら「あんた、あの二人が死んだらどうするの」「死んだら冷たくなって息しないだけだ」「まぬけだね」「オレがしたんじゃないよ、だいたいお前は生意気だよ、オレは夫だぞ」「夫が聞いて呆れるよ、オットセイみたいな顔しやがって」、それを見ていた梅堂が「女なんてあれだからいやなんだ、ボクは独身を通すぞ」月風と千絵子は、いつのまにか仲直りしている。「痛くなかったかい」「あなた、本当にゴメンなさいね」荷物を抱えて出て行こうとする梅堂を千絵子が呼び止めた。「あたしたちの喧嘩の原因になってくれてありがとう。おかげで明日の芝居のいい工夫がついたんです。それからあなたは、初めて二ツ木月風をこの家の主人として認めてくれた方です。どうか汚い家ですけどウチにいらしてください」。
 かくて、この映画はメルヘンチックな大団円を迎えることになる。心中した若い二人も命はとりとめた模様、金太郎夫妻にも平穏が訪れて「終」となった。
 主人公が童謡詩人とあって、映像の背景には童謡のメロディーが多用されている。「雀の学校」「靴が鳴る」「夕焼け小焼け」「浜辺の歌」「埴生の宿」などが、それぞれの場面の雰囲気を、鮮やかに醸し出していた。まさに「大人の童話」、しかし、金太郎とおはまの喧嘩を見て、梅堂が「とかく女は養いがたし、七人の子を生しても女に気を許すな、女心は秋の空」と嘆じる景色は、男にとっては切実、「女の逞しさ」が一際目立つ、成瀬巳喜男ならではの傑作であったと、私は思う。 
(2017.5.8)