梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本の名随筆・芸談」(和田誠編・作品社・1996年)

 「日本の名随筆・芸談」(和田誠編・作品社・1996年)読了。私自身の煩悩のため、「芸人風情が随筆なんて十年早い」と思いながら、徳川夢声、山本嘉次郎、五代目・古今亭志ん生、團伊玖磨、藤原義江、黒澤明、美空ひばり、嵐寛寿郎、芥川比呂志、六代目・三遊亭円生、野村万作、高峰秀子、二世・尾上松緑、森繁久弥、加藤武、池部良、マルセ太郎、小沢昭一、山下洋輔、立川談四楼、吉田日出子、鴨下信一、岩城宏之の芸談を読んだ。八木正生、井原高忠、黒柳徹子、長嶺ヤス子、倉本聰の作物は、読まなかった。 功を遂げ、今や有名人となった芸人の談義には、とかく下積み時代の苦労話や、途上における自慢話がつきもので、鼻持ちならない。この書物の中、でただ一編、素晴らしい作物があった。それは、マルセ太郎の「和っちゃん先生」という随筆である。「和っちゃん先生」とは、知る人ぞ知る「日劇ミュージックホール」の座長格の芸人・泉和助(父は陸軍大将、日本の敗戦時に自決)のことで、彼を師と仰ぐマルセ太郎との交流が、さわやかな筆致で描かれている。苦労話も、自慢話もない。ただひたすら「和っちゃん先生」の類い希なる実力と芸域の広さが述べられているだけである。なかでも「まず教わったとおりにやれ」という一節に、私は感動した。<コメディアンたちは何度も出番があって、結構忙しい。一回しか出番のない僕は、それがうらやましかった。何かの景が終わって楽屋にコメディアンたちが戻ってきたとき、その中のSが、和っちゃん先生に、厳しく叱られていた。怒るところを見るのは珍しいことである。いつも誰彼なしにジョークを連発して陽気に笑っていたから、側にいた僕は、自分が叱られているかのように緊張した。事情は、Sが演技に迷って、和っちゃん先生に工夫を質ねたらしいのだが、Sは教わったとおりにやらなかったのである。Sの弁解は、その工夫は和っちゃん先生だからできることで、自分には向かないと判断したからだと言う。「だったら何故俺に訊いたのだ。簡単に、何でもかんでも相談するんじゃない。いったん教わったら、まず教わったとおりにやれ。お前な、道を訊いてだよ。その角を右に曲がれと言われたら、ともかく右に曲がるだろう。それで見つからなかったら、今度はお前の判断だ。初めっから右に曲がらなかったら、教えてくれる人に失礼じゃないのか」真理である。僕の周りにも、やたら教えを乞う芸人たちがいた。そういう連中に限って、ほとんど教えをきいてない。自信のある芸人は滅多にひとに訊かないし、何かを指摘されたら、ちゃんと後日それを芸に生かしている。>
 現役時代、私もまた職場で同様の経験をしている。近頃では、大衆演劇を見聞した感想を各劇団の座長に送付しているが、彼らは文字通り「何かを指摘されたら、ちゃんと後日それを芸に生かしている」のである。 
 また、こんな一節もあった。<ある晩舞台がはねた後、上機嫌の和っちゃん先生がみんなに、これから飲みに行こうと声をかけた。僕はわくわくして、そんな中に交わることのできる自分が、いかにもプロの芸人になったような気分だった。コメディアンの一人が、彼は割合売れていて、といっても、その頃はラジオだが、「すみません、NHKの録音取りがありますので、僕は失礼させていただきます」早々と帰り支度のできた彼は、そう丁寧に断って行きかけるのを、和っちゃん先生は呼びとめた。やさしく笑いながら。「そういうときはな、(小指を立て)これが待っていますので、と言うんだよ。ハイ、行ってらっしゃい」このときのことは強く印象に残っていて、忘れることがない。芸人仲間への粋な心遣いを教わった。>
 さらに、<日劇ミュージックホール時代の和っちゃん先生は、脂ののったときでもあったが、いまいうところのメジャーではなかった。僕でさえ、日劇に出るまでは全く知らなかったから、一般には無名である。(略)何かの時に和っちゃん先生は言ったことがある。「俺が先生と呼ぶのは、榎本のおやじを除いて、森川のおじちゃんだけだ」「男はつらいよ」の初代おいちゃん、森川信のことである>という一節もあった。そして、<昭和四十五年(1970)二月二日、和っちゃん先生は、誰にも看とられず、独り逝った。五十歳だった。何と、僕とわずか十四歳しか離れていなかったのである。そしていま、僕は和っちゃん先生の年齢をはるかに越えている。>という終章。
 マルセ太郎の芸談は、終始「和っちゃん先生」について語りながら、あくまで控えめに自分自身を(「和っちゃん先生」のおかげ自分の現在があることを)語っているのである。まさに「文は人なり」、彼の品格の高さを窺わせる名随筆であった。
(2008.2.17)