梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

88歳女性の《決心》

 今年88歳になる女性の話。彼女は2年前に伴侶を亡くし(89歳で他界)たが、その七回忌までは生きようと思っている。最近、菩提寺(住職、檀家代表)から連絡があった。本堂の修繕をしたいので60万円の寄付をしてもらいたいとのことである。夫の生前中には100万円ほどの寄付をしたこともあったが、それは羽振りのよかった時代の話、今では事情が異なる。とてもそのような余裕はない。しかも、菩提寺の所在地は、新幹線に乗っていかなければならない地方都市、いっそのこと、この際、菩提寺とは縁を切って、先祖代々の遺骨を都心の「霊園」に移そうと決心した。ところが、である。そのために要する費用はいかほどか。最低でも150万円が「相場」だということである。おそらく彼女は、その金を工面してでも、決心を実行するだろう。だがしかし、どこかおかい。払う金額としては高すぎるとは思わないだろうか。そんなことは「大きなお世話」、死者が生前に稼いだお金をどのように使おうが「とやかく言われる筋合いはない」かもしれない。「死んだらお墓に入りたい」と思うことは自由である。墓地の立地条件を選択することも自由である。要は、「需要と供給」の問題だが、価格が「べらぼうに高い」とは思わないか。ただ死者の骨を埋めるだけのことに、なにゆえ、そのような多額の支出をしなければならないか、私には全く理解できないのである。人間は「生きているうちが華」、死んでしまえば「塵芥」に等しい。遺骨が「野ざらし」にされれば「浮かばれない」などという「世迷い言」を言うのは誰か。必ず、遺骨を大切に扱う「振り」をして、実は「金儲け」を企んでいる「占い師」「霊媒師」「超能力者」そして「仏教」をはじめとした種々雑多な「宗教家」ということになる。
 人が、いつ、どこで、どのように死のうが「一銭もかからないですむ」ような社会はないものだろうか。小説家・深沢七郎が描いた「楢山節考」の世界は「絵空事」に過ぎなかったのか。現代の『楢山』は、「特別養護老人ホーム」などと看板を変えて存続しているが、「無料で入所できる」施設は皆無であろう。せめて、「死者」(遺骨)となった(生きることの「しがらみ」「煩悩」「苦痛」「責任」からやっと解放された)《暁》には「無料で公共墓地に入れます」くらいの行政サービスを、国や地方公共団体が提供したところで、罰は当たるまいに・・・。(2009.9.7)