梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「安倍カラー」(防衛費増額)の魂胆

    東京新聞朝刊(6面)に、「安倍カラー鮮明に 自衛隊の役割拡大の可能性 防衛費11年ぶり増へ」という見出しの記事が載っている。その内容(の一部)は、以下の通りであった。〈防衛省は2013年度予算の概算要求で、12年度より約千二百億円、2.6%増の四兆七千七百億円を計上した。認められば、防衛予算は11年ぶりの増額になる〉〈Q・予算増額は、首相が改憲で実現を目指す「国防軍」への布石か。A・防衛省は、北朝鮮によるミサイル発射や尖閣を含む南西諸島の防衛など、目の前の課題に素早く対応する体制を整備するためだと説明している。ただ、首相は集団的自衛権行使のための憲法解釈変更に意欲を示し、政府は年内にも「安倍カラー」を反映した新たな防衛計画の大綱と、中期的防衛力整備計画を策定する見通しだ。今回の予算増額が直接、国防軍に結び付くわけではないが、自衛隊の役割を大きく拡大する第一歩になる可能性は否定できない〉(生島章弘)。四兆七千七百億円という金額が、どれくらいのものなのか、私たち「無辜の民」にとっては、およそ実感がわかないが、日本の人口を1億として1人当たりに換算すれば、約4万7千7百円ということになる。その額が「高すぎるか」「安すぎるか」は、各自の判断にまかせるとして、大切なことは、本当にそれで日本が守れるのか、という視点であろう。そもそも、「日本を守る」とはどういうことか。そしてまた、その守るべき「日本」とは何なのか、が明らかにされなければならない、と私は思う。そんなことは「言わずもがな」、「日本」とは、おまえが住んでいるこの土地(国土)であり、おまえが一緒に暮らしている同胞(国民)ではないか(この未熟者!)、という叱咤の声が聞こえるが、本当にそうだろうか。西欧諸国において「国家」とは、その国の「政府」のことであり、国民と国家の間には「一体化しない距離」があると聞く。戦後の日本もまた、「国」を相手に訴訟を起こす「国民」が居る以上、相互の間に「距離」があることは間違いない。それが、(日本が)「民主主義国家」として存在するための条件(証し)である。しかし、「安倍カラー」が防衛しようとする「日本」とは、明治維新を端緒とする、あの伝統的な「美しい国」のことであり、天皇を君主とした「皇国」に他ならない。国民は、天皇の「赤子」であり「臣民」である。「国家」と「国民」は一体であり、それに反する者は、「国賊」であり「非国民」である。「美しい国」(皇国)は、西欧列強の「植民地支配」に抗して、日清・日露の戦いに勝利し、領土を拡大した。大東亜戦争、太平洋戦争もまた、欧米列強の「不当な支配」に対する「国土防衛」「植民地独立」のための戦いであったのだ。その「美しい国」を防衛するために犠牲となった同胞(英霊)のためにも、再び、その悲劇を繰り返さないためにも「防衛予算」は増額されなければならない・・・。といった言辞は、あくまでも「たてまえ」、それを「大義名分」という。実を言えば、「防衛予算」の増額で、しこたま「儲ける」連中がいるのである。武器の製造・販売、軍需品の調達、戦争を外注する民間軍事会社、等々。国民一人(当たり)が納める4万7千7百円は、間違いなく、彼らの懐に入ることを、見落としてはならない。いつ、どこの時代でも、「国家」は「国民」を守らなかった。その証拠に、東京大空襲、原爆投下等々、先の大戦(防衛戦争)の被害に遭った「国民」を、「国家」は今なお「見殺し」続けているではないか。だまされてはいけない。
(2013.1.9)