梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

芸能人の《賞味期限》

 東京新聞朝刊21面に「週刊誌を読む《「老い」に率直な感想 永さんら世代の長い活躍願う》」(月刊「創編集長・篠田博之)という記事が載っている。それによると、〈・・・先頃、ある週刊誌記事が話題になった。『週刊女性』7月14日号の「永六輔『回らないろれつ』『激やせ15キロ』の孤独生活」だ。新聞の投書欄に、永さんのラジオ番組を聞いた主婦から「ろれつが回らなくなっていて、大変聴きづらかったです。そろそろ後輩に道を譲る時なのではないでしょうか」という投書が載った。それを受けて『週刊女性』記者が永さんを自宅付近で隠し撮り。こう書いた。「角刈りのヘアスタイルは昔と変わりなかったが、その体形は、まるで別人と見間違えるほどやせ細っていた」。「奥さんに先立たれて、少し孤独そうに見えました」というコメントも載っている〉そうである。その記事を見た永六輔は、〈「あははは、余計なお世話だ」と笑ってこう言った。「ろれつが回らないというのはごもっともで、入れ歯のせいもあるけど、これはもう歳をとったからとしかいいようがない」〉ともある。かつては「立て板に水のように喋った」人ほど、「老い」による能力の衰退は際だつもので、永六輔に限らず、例えば「徹子の部屋」(テレビ朝日)の黒柳徹子、「日曜名作座」(NHKラジオ)の森繁久弥、加藤道子(故人)なども該当する。今は、高齢化社会、芸能人といえども「寄る年波には勝てず」「老醜の身」を晒さなければならない宿命にあることは確か、そこで大切なことは「身の引き方」「引退の潮時」ということになるのではないだろうか。かつて銀幕のスターだった原節子は、敬愛する恩師・小津安二郎が他界するとまもなく「引退」、名歌手・ちあきなおみも、また最愛の夫を見送った後「隠遁」、世間ではその動機が「不可解」「謎」などと取り沙汰されていたようだが、私には一目瞭然、彼女たちの「心情」が痛いほどよくわかる。これまでの自分があるのは、最愛の人のおかげ、生きてこれたのも、頑張れたのも、あなたが「そばに居て」くれたからこそ・・・。その人に先立たれた今、何ができるというのだろう。さだめし「あとは何にもない、あげるものなんて・・・」といった俚謡の文句がピッタリといった風情で、なんと潔い、見事な「引き際」であろうか。さらに言えば、未練がましく「後を追う」こともなく、誰にも気づかれず、ひっそりと「生きている」、その「したたかさ」が素晴らしいのである。
 人生は「ステップアップ」ができてこそ「幸せ」、昨日よりは今日、今日よりは明日の「向上」を目指すことが鉄則である。そのことが不可能になったとき、「過去の栄光」にしがみつきたくなるのが人情だが、ものには「順番」というものがある。いたずらに「ロングラン」の長さだけを競い合うような風潮は慎まなければならない、と私は思う。(2009.8.3)