梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・役者点描・葉山京香

 大衆演劇の舞台で演じられる「舞踊」は、俗に「創作舞踊」「新舞踊」などと呼ばれ、本来の「日本舞踊」とは一線を画しているようだが、下世話な私の鑑賞眼からみれば、前者の方が、よほど取っつきやすく親しめる。そこで使われる音曲は、ほとんどが巷に流れている「流行歌」、しかも「愛別離苦」「義理人情」を眼目にした「演歌」「艶歌」「怨歌」の類だからである。聴くだけでは「ナンボのもん?」と思われるような音曲であっても、それに件の「創作舞踊」「新舞踊」なる代物が添えられることによって、たちまち、名曲に変貌してしまうのだから、面白い。たとえば「チャンチキおけさ」(三波春夫)、たとえば「ヤットン節」(久保幸江)、たとえば「島田のブンブン」(小宮恵子)・・・等々、数え上げれば切りがない。まして、その音曲が「聴くだけで価値がある」名曲ともなれば、それに至芸の舞踊が加わることによって、珠玉の名舞台(三分間のドラマ)が展開することになるのである。斯界・女優陣の中で、ひときわ舞踊に長けているのは誰だろうか。(下世話な鑑識眼しか持ち合わせていない)私の「独断と偏見」によれば、その筆頭は喜多川志保(「劇団天華)、続くのが、三河家諒(「三河家劇団」)、葉山京香(「演劇たつみBOX」)、春日舞子(「鹿島順一劇団」)、浪花めだか(「浪花劇団」)である。この五人人に共通しているのは、「音曲に対する思い入れ」であろうか。音曲をバックに踊る(身体表現する)のではなく、音曲そのもの世界を(所作と表情で)「心象表現」しようとする心意気と技である。葉山京香(昭和43年生まれ)は、劇団のホームページ(座員紹介)の「私のココを見て」欄で〈女心の優しさと淋しさの思いを込めた踊り〉と記している。私はこれまでに、彼女の舞台を3回、見聞している。1回目は平成20年11月、森川京香という芸名で、「森川劇団」に居た時であった。以下は、その時の感想である〈【森川劇団】(座長・森川凜太郎)〈平成20年11月公演・浅草木馬館〉(前略)舞踊ショー、若手・森川梅之介の「立ち役」の艶姿、女優・森川京香の「酒場川」(唄・ちあきなおみ)の「素晴らしさ」が強く印象に残った。(後略)〉2回目は、平成21年9月、浅草木馬館の舞台であった。以下はその時の感想である。〈【たつみ演劇BOX】(座長・小泉たつみ)〈平成21年9月公演・浅草木馬館)(前略)ブログ情報によれば、今年三月から嵐山瞳太郎、紫野京香という新メンバーが加わった由、彼らはこれまで森川梅之介、森川京香という芸名で「森川劇団」(座長・森川長二郎)にいたとのこと、なるほど先日、「森川劇団」の舞台を横浜・三吉演芸場で見聞したとき、「どこか物足りない」感じがしていたが、そのような事情があったのか。とまれ、「たつみ演劇BOX」にとっては、メニューに新しいトッピングがプラスされた風情で、いっそうの充実が期待できるだろう。とりわけ「舞踊ショー」での紫野京香は「絶品」、それぞれの音曲にあわせて、どこか「物憂げな」「うら寂しい」景色の描出では、右に出る者はないのだから。加えて、前回(今月公演で)見聞した「愛燦燦」(唄・美空ひばり)のような洋舞曲を、「和風」(表情豊か)に「踊りきってしまう」実力は、半端ではない。(後略)〉。そして3回目は、平成22年2月、大阪・鈴成座の舞台であった。以下はその時の感想である。〈【たつみ演劇BOX】(座長・小泉たつみ)〈平成22年2月公演・大阪鈴成座〉満座劇場の「劇団澤宗」(座長・澤村城栄)も見聞したかったが、どうしても紫野京香の舞台姿を「拝見」したかったので、こちらに来てしまった。(中略)加えて舞踊ショー、辰巳小龍の「湯島の白梅」、紫野京香の「命くれない」は珠玉の名品、それを見聞できただけでも来場した甲斐があったというもの、大いに満足して帰路についた次第である〉。この時、紫野京香という芸名は、なぜか葉山京香に改まっていた。というわけで、要するに、私がこれまでに見聞した葉山京香の舞踊は、「酒場川」(ちあきなおみ)、「愛燦燦」(美空ひばり)、「命くれない」(瀬川瑛子)の3曲に過ぎないのである。にもかかわらず、私はその舞台が忘れられない。たとえば、「酒場川」、歌唱力では右に出るものなし、といわれた、ちあきなおみの「名曲」である。ともすれば、その音曲の素晴らしさに踊りがついていけなくなるのだが、(当時の)森川京香の舞台は違っていた。「あ〇た〇憎〇と〇〇と〇さ か〇だ〇な〇を〇れ〇す 子〇の〇う〇捨〇ら〇た 女〇恋〇み〇め〇を 酒〇泣〇た〇酒〇川 男〇心〇読〇な〇で お〇れ〇だ〇の〇で〇た 死〇よ〇辛〇裏〇り〇 怨〇で〇て〇無〇な〇ね 涙〇ぼ〇る〇場〇 私〇暮〇し〇ア〇ー〇で あ〇た〇誰〇い〇の〇しょう グ〇ス〇酒〇酔〇し〇て 心〇傷〇洗〇た〇 ネ〇ン〇し〇酒〇川」(詞・石本美由紀。曲・船村徹)と唄う、ちあきなおみの「歌声」が、森川京香の「舞」によって、いちだんと鮮やかな景色を映し出す。観客(私)は、真実、彼女の「表情」「所作」をとおして、「からだのなかを流れる憎さ、いとしさ」「捨てられた子犬」「死ぬより辛い裏切り」「私と暮らしたアパート」「グラスの酒」「心の傷」「ネオン悲しい酒場川」を「目の当たり」にすることができるのである。まさに「歌声」と「舞」が渾然一体となって「結晶化」する、珠玉の名品に仕上がっていた。その風情をたとえれば、竹久夢二の「美人画」が動き出した感じとでもいえようか・・・。そのことは「愛燦燦」(詞、曲・小椋桂)でも変わらない。私は、〈「愛燦燦」(唄・美空ひばり)のような洋舞曲を、「和風」(表情豊か)に「踊りきってしまう」実力は、半端ではない〉と前述したが、どちらかといえば、自信たっぷりな「人生謳歌」然とした原曲の風情を、彼女はその「舞」によって一変させてしまう。そこで描出される人生とは、あくまでも旅役者・紫野京香の「人生」であり、どこまでも「控えめ」、つつましく、おくゆかしく、時によっては「たよりなげに儚く」、「水の泡沫」のような人生なのであった。ここでは、明らかに「舞」が「歌声」(美空ひばり)を超えている。(私にとっては)「聴くだけではナンボのもん?」と思われる音曲を、「舞」によって光り輝かせることができた典型的な事例だった。同様に「命くれない」(詞・吉岡治、曲・北原じゅん)も然り。音曲自体は「夫婦の絆」を眼目にした、浪曲風(?)ド演歌、かの有名な梅澤富美男も作品を残しているが、その出来栄えは「原曲」の域を超えてはいない。いわば「音曲」と「舞」が〈持ちつ持たれつ〉の関係で留まっている段階だが、ひとたび葉山京香の「手」にかかると、その「浪曲風ド演歌」が、「夫婦の絆」の「儚さ」「危なさ」までをも描出する「名曲」に変化(へんげ)してしまうことは間違いない。文字通り「女の優しさと淋しさの思いが込められた」、夢二風の艶姿(世界)が浮かびあがり、「聴くだけではナンボのもん?」と思われた「命くれない」もまた、「愛の無常」を眼目にした名曲となったのである。しかも、彼女の舞台は「陽炎」のように、儚く、たよりなげである。(私の独断と偏見によれば)女優・葉山京香の「役者人生」もたよりなげ・・・、ここ3年の間に3回も改名したのはなぜ?、いつも舞台に出るとは限らないのはなぜ?、もしかして病身?、もしかして「引退』間近か?。「謎」は深まるばかりだが、それもまた役者にとっては「魅力」(芸)のうちであろう。いずれにせよ、葉山京香の「至芸」を鑑賞できるのは「至難」のこと、よほどの幸運にめぐまれた時でなければ無理ではないだろうか。願わくば、「たつみ演劇BOX」・舞踊ショーの舞台を、一日も早く、また長期にわたって御照覧あれ。グッド・ラック!(2011.7.10)