梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・劇団素描「劇団逢春座」(座長・浅井春道)

【劇団逢春座】(座長・浅井春道)〈平成26年7月公演・みのりの湯柏健康センター〉
この劇団は元「正研座」、兄・浅井正二郎と弟・研二郎の二枚看板であったが、平成24年に「発展分離」し、兄・浅井正二郎が責任者、長男・春道(26歳)が座長となって、春道の弟・雷三(18歳)、妹・陽子(22歳?)とともに、斬新な舞台を務めている。私は平成20年に「正研座」時代の舞台を福島・蟹洗温泉で見聞、以下のような感想を綴った。〈総じて、芝居は「水準」並、下手ではないが、これといって惹きつけるものがない。役者一人一人の実力は「水準」以上なのに、それが芝居の舞台に反映されていない。配役、演出に「一工夫」が必要だろう。特に、座長・浅井正二郎の「役割」が大きいと思う。現状では、浅井研二郎に「頼りすぎ」「任せすぎ」、座長として「出番が少ない」のはよいが、いざ「出番」の時「光るもの」が感じられない。芝居でも、舞踊でも、座長の「芸」は群を抜かなければならないが、その余裕が感じられないのである。芝居では、酒井次郎、舞踊では、竹川ひろしの「芸」とほぼ同等。だとすれば、彼らにはない「持ち味」(個性)を発揮することが肝要であろう。私の観たところによれば、芝居では、「三枚目」「汚れ役」「憎まれ役」「敵役」に徹すること、そのイメージを、舞踊ショーの「女形」で「180度転換すること」、が座長・浅井正二郎の「持ち味」であり「魅力」である〉。 さて、今日の舞台では、浅井研二郎、酒井次郎、竹川ひろしの姿はなかったが、さすがは責任者の浅井正二郎、芝居では「三枚目」「仇役」に徹し、舞踊ショーでは天下一品の「女形舞踊」(「お梶」)を披露、文字通りその「責任」を十二分に果たしていた(劇団のすべてを「180度転換」することに成功していた)、と私は思う。芝居の外題は昼の部「春雨宗太」、春雨一家の兄弟分の物語である。兄貴分・宗太(座長・浅井春道)はある娘に恋をしていたが、娘が恋しているのは弟分(浅井竜也)の方。そんな折り、敵対一家に草鞋を脱いだ旅人(特別出演・三河家扇也)も親分(責任者・浅井正二郎)の使いで娘を呼びに来た。居合わせた弟分、そうはさせじと旅人と揉み合ううち、旅人の片腕を斬り落としてしまった。弟分われに返り、旅に出ようとするのを宗太が引き留め、「身代わり」を引き受ける。「お前には大事な恋人がいる。堅気になって幸せに暮らせ」。舞台は変わってある峠道。道飲み食いした浪人(浅井優・好演)を追いかけてきた茶屋娘(浅井陽子?)、「もしお侍さん、お代を払ってください」「なぜじゃ」「飲み食いしたんだから、そのお代を払ってください」「馬鹿を申せ、どうぞ飲み食いしてくださいと誘ったのはお前の方、わしはお前に頼まれたから店に入ってやったのだ。どうして金を払う必要がある?」といったやりとりが、何とも可笑しかった。そこに、浪人の竹馬の友(浅井雷三)が病身の姿で登場、「そういえば昔、おぬしに金を貸していた。今すぐ返してもらいたい」といった非情振りも、どこか剽軽でたいそう魅力的であった。その窮地を救ったのが旅姿の宗太、浪人の股間を一撃し、竹馬の友に金子を恵む。やがて1年後、旅芝居の小屋主となった弟分のところへ敵対一家の親分、旅人と、件の浪人を連れてやってくる。公演は「逢春座」、連日の大入りで売り上げは千両を下らない。その分け前をよこせと迫ったが、弟分「待って下さい、その金は役者衆への給金に使うもの、親分にお渡しすることはできません」。親分いわく「オレは芝居なんて大嫌いだ。見に来る客の気が知れない」、その一言で客席は大喝采、重ねて浪人いわく「待て!小屋主の言い分は尤もだ。役者に給金を払うのは当たり前だ。わしは裏切っても小屋主の味方をする。おい、親分、給料を払え!」といった「楽屋オチ」が、実に鮮やかであった。「正研座」時代、私は〈芝居は「水準」並、下手ではないが、これといって惹きつけるものがない。役者一人一人の実力は「水準」以上なのに、それが芝居の舞台に反映されていない。配役、演出に「一工夫」が必要だろう〉と綴ったが、その「一工夫」が「二工夫」「三工夫」となって結実された、見事な舞台模様であった。また夜の部、芝居の外題は「鼠小僧と白鷺銀次」。筋書きは、鼠小僧(責任者・浅井正二郎)の身代わりとなって役人(三河家扇也)に捕縛される白鷺銀次(座長・浅井春道)の物語だが、その三者に絡む脇役、達磨の親分(浅井優?)とその子分(芸名不詳・もしかして浅井雷三?)の演技が「ことのほか」光っていた。達磨の親分、鼠小僧の愛人(実は役人の娘・浅井陽子)に横恋慕、身請けしようとして子分に百両持たせやって来た。「色よい返事を聞かせてくれ」、愛人、戸惑いながらも「しばらく、待っておくんなさい」。そこに、鼠小僧と銀次、御店の旦那、手代の風情で登場。愛人、旦那に曰く「弟が百両の借金をこさえてしまいました。どうか助けてください」「何、たった百両?お安い御用です。すぐに持ってこさせましょう」と言って、手代に申しつける。手代「わかりました」と二人を見送ったが、すぐさま銀次に戻って「ふん!百両なんてそう簡単には手には入らねえ」とぼやく姿が堂に入っていた。しかし運よく、泥酔状態の達磨の子分と鉢合わせ、まんまと懐の百両を掠め取った。その百両は、銀次、鼠小僧、愛人と渡って役人の手へ・・・。お気の毒なは達磨の親分、気を取り直して帰宅後、鼠小僧を捕縛しようと早寝をしたが、そこに忍び入ったのは鼠小僧と銀次、反対に捕縛されてしまった。達磨の子分、縛られながらも「かっこいい!親分は袖の下で大もうけ、小さい蔵には小判がざっくざく」などと言って蔵破りの手助けをするばかりか、帰りぎわには銀次と「義兄弟」のちぎりまでを結んでしまう。義賊を慕う天真爛漫な風情を、芸名不詳のこの役者はものの見事に描出していた、と私は思う。それにしても、この役者、口跡、表情、所作、相手役(浅井優)との「間」のとり方、観客との呼吸の合わせ方などなど「三枚目」の条件をすべてクリア、申し分のない舞台姿であった。いったい誰なのか、その「謎」は深まるばかりである。芝居は大詰めへ、追っ手に囲まれた銀次、もうこれまでと役人を呼び寄せ「私が鼠小僧、お召し捕りください」。役人、「お前は本当に鼠小僧か、誰か顔を知っている者は?」と問いかければ、達磨の子分颯爽と登場、銀次の顔よくよく見て「間違いない、あっしは鼠小僧と兄弟分ですから、これは鼠小僧です」。その様子を、陰から見ている鼠小僧と愛人、銀次それとなく鼠小僧への「暇乞い」を始めるが、達磨の子分、自分への「暇乞い」と勘違いして「ちんぷんかんぷん」、抱腹絶倒の場面で幕は下りた。(6年前)「芝居は「水準」並、下手ではないが、これといって惹きつけるものがない」と評した私の見解は、大幅に修正されなければならないと反省、今日もまた大きな元気を頂いて帰路に就いた次第である。感謝。
(2014.7.10)