梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・劇団素描「劇団花組むらさき」(座長・南條すゝむ)

【劇団花組むらさき】(組長・南條すゝむ)〈平成23年5月公演・佐倉湯ぱらだいす〉                           芝居の外題は昼の部「苦労は天下の回りもの」。筋書は大衆演劇の定番、ある武家におきた出来事の物語である。当主A(組長・南條すゝむ)の妹B(むらさき金太郎・女優)が一門の若侍C(三代目・南條のぼる)を慕っているが、若侍は当家の使用人D(彩姫)と「いい仲」になっている。妹は、若侍の窮地を救おうとして四十両の大金を、当主には無断で提供する。金がなくなったことに気づいた当主が、一同に尋ねると、妹曰く「Dが盗ったに違いない、Dには身持ちの悪い兄E(座長・姿幸之丞)が居る。おそらく兄に頼まれて調達したのでしょう」当主はいっこうに取り合おうとしなかったが、それでも執拗に妹はDを責めたてる。そこに飛んで入ったのは、他ならぬ身持ちの悪い兄、「へい、その金を盗ったのは、あっしです」と、妹をかばったつもりだったが、当主に「まともに働いて返済するよう」諭される。兄は、妹の疑いを晴らすため、まともに働くことを決意、大阪城の普請で年四十両稼ごうと旅立った。一年後、妹は再び若侍に言い寄るが、「私には二世を誓ったDという人がおります」とあっさり断られ「それなら、あのときの四十両を返しておくれ」と催促する始末・・・。若侍、思案に暮れていたが、またまた身持ちの悪いDの兄、ボロボロ、ヨレヨレの風情で登場、「やっとの思いで四十両稼ぎ、今、立ち戻った」由。これで妹の疑いが晴れると思いきや、懐の四十両が無い。どこかに落としてきたらしいのだが、それを拾ったのは若侍。欣然として当主の妹Bに返そうとするのだが、Bいわく「そんなお金を貸したおぼえはありません」だと・・・。かくて四十両はめでたく、再び兄Eの懐へもどる。兄、当主にその金を差し出し「どうか、これで妹の疑いを晴らしてやっておくんなさい」。すべてを察した当主、妹の我儘を叱りつけ、Eもまた「この女、ゆるせねえ」と殴りかかろうとするが、妹のD必死に止めにかかった。「やめてお兄ちゃん。私の疑いを晴らすため、お兄ちゃんは一生懸命働いてくれた。そんな『働き者』になったのは、今となってはB様のおかげ、合わせる手はあっても、挙げる手なんてありはしない」と泣き崩れた。恋に破れたBも心底から改心、若侍と使用人Dの手をとって二人の契りをとりもつ、といった粋な景色で大団円となった。この芝居、「劇団京弥」(座長・白富士一馬)が「五十両のゆくえ」という外題で上演していた。その出来栄えは「何れ菖蒲か杜若」、それぞれの劇団が、それぞれの持ち味を十分に発揮した舞台であった、と私は思う。「演劇グラフ」(2007年8月号)では、この劇団について以下のように紹介している。〈劇団むらさき 関西大衆演劇親交会所属。初代市川人丸が創立し、昭和33(1958)年、長男・南條すゝむが受け継ぐ。昭和62(1987)年に、南條のぼるが座長襲名。「市川ひと丸劇団」から「劇団むらさき」となる。定番の時代物だけでなく、オリジナルの現代物にも意欲的に取り組んである〉。しかし、座長・南條のぼるはまもなく急逝、2009年12月には、大阪・朝日劇場で、「故南條のぼる三回忌追善特別座長大会」が催された由、その様子も「演劇グラフ」(2010年3月号)に載っている。なるほど、三代目南條のぼるは、組長・南條すゝむの孫、ではいったい座長・姿幸之丞の出自は如何に・・・、などと思いを巡らせながら帰路に就いた次第である。
(2011.5.9)