梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・芝居「大江戸裏話・三人芝居」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(平成20年9月公演・石和温泉・スパランドホテル内藤)
 芝居の外題は、昼の部「大江戸裏話・三人芝居」。私は、この劇団の全く同じ舞台をほぼ半年前(平成20年2月公演)、川越・小江戸座で見聞している。以下は、その時の感想である。
〈「大江戸裏話・三人芝居」は、もう店じまいをしようとしていた、夜泣きうどんの老夫婦(爺・蛇々丸、婆・座長)のところへ、腹を空かした無一文の遊び人(虎順)がやってくる。うどんを三杯平ら上げた後、「実は一文無し、番屋へ突き出してくれ」という。驚いた老夫婦、それでも遊び人を一目見て「根っからの悪党ではない」ことを察する。屋台を家まで運んでくれと依頼、自宅に着くと酒まで馳走した。実をいえば、老夫婦には子どもがいない。爺が言う。「食い逃げさん、頼みがあるんだが・・・」「なんだい?」婆「お爺さん、ただという訳にはいかないでしょ」と言いながら、大金の入った甕を持ってくる。「それもそうだな、食い逃げさん、一両あげるから、頼みを聞いちゃあくれないか?」「えっ?一両?」今度は遊び人が驚いた。「一両もくれるんですかい?ええ、ええ、なんでもやりますよ」爺「実はな、私たち夫婦には子どもがいないんじゃ、そこでどうだろう。一言でいいから『お父っつあん』と呼んではくれないか?」「えっ?『お父っつあん』と呼ぶだけでいいんですかい?」「ああ、そうだ」「そんなことなら、お安い御用だ。じゃあ言いますよ」「・・・」「お父っつあん」「・・・、ああ、やっと『お父っつあん』と呼んでもらえた」感激する爺を見て、婆も頼む。「食い逃げさん、二両あげるから、この婆を『おっ母さん』と呼んではくれまいか?」小躍りする遊び人「ええ、ええ、お安い御用だ。それじゃあ言いますよ、いいですか」婆「・・・」「おっ母さん!」「・・・」婆も感激して言葉が出ない。つい調子に乗って爺が言う。「今度は、あんたを叱りたい。あたしが叱ったら『すまねえ、お父っつあん、もうしねえから勘弁してくんな』と謝ってはくれまいか。礼金は三両あげましょう」喜んで引き受ける遊び人、婆も四両出して叱りつけた。そして最後にとうとう爺が言い出す。「どうだろう、食い逃げさん、この甕のなかの金全部あげるから、私の言うとおり言ってはくれまいか」「・・・?」「『お父っつあん、おっ母さん、おめえさんたち、いつまでうどん屋台を引いてるつもりだ、オレがこうして帰ってきた以上、後のことは全部任せて、もう止めたらどうだい』ってね」指を折って懸命に憶えようとする遊び人「ずいぶん長いな。でも、だいじょうぶだ。・・・じゃあ、いいですか。言いますよ」瞑目し、耳をすます老夫婦。遊び人、思い入れたっぷりに「お父っつあん、おっ母さん、おめえさんたち二人いつまでうどん屋台を引いてるつもりだ。・・・」の名台詞を披露する。かくて、大金はすべて甕ごと、遊び人のものとなった。大喜びの遊び人「ありがとうござんす、これで宿屋にも泊まれます。あっそうだ、さっきのうどん代、払います」と一両小判を爺に手渡した。「こんなにたくさん、おつりがありませんよ」「とんでもねえ、とっておいておくんなせい。それじゃあごめんなすって」意気揚々と花道へ・・・、しかし、なぜか足が前に進まない。家に残った老夫婦の話に聞き耳を立てる。爺「お婆さん、本当によかったね。どんなにたくさんのお金より、子どもを持った親の気持ちになれたことがうれしい。あの人がくれた一両で、またこつこつと暮らしていきましょう」遊び人、矢も楯もたまらず引き返し、哀願する。「さっきもらったこの金はあっしのもの。どう使ってもよろしいですよね」あっけにとられる老夫婦、顔をみあわせて訝しがり「・・・・?、はいはい、けっこうですよ」遊び人「・・・、この金、全部あげるから、おめえさんたちの子どもとして、この家に置いてください」と泣き崩れた。どこかで聞こえていた犬の遠吠えは「赤子の産声」に、そして舞台・客席を全体包み込むようなに、優しい「子守唄」で幕切れとなった。
 幕間口上の虎順の話。「一両って、今のお金にするとどれくらいだと思いますか。だいたい六万円くらいだそうです。一言『お父っつあん』で六万円ですからね、大変なことだと思います」その通り、老夫婦の全財産(数百万円)よりも「親子の絆」が大切という眼目が、見事なまでに結実化した舞台だった。〉
 「鹿島順一劇団」の舞台は、何度観ても飽きることがない。その時、その場所によって、全く違った風情・景色を醸し出すことができるからである。「大江戸裏話・三人芝居」の三代目・虎順(まもなく17歳)は、この半年の間に「たくましく」成長した。前回の「あどけない」「たよりない」風情は薄まり、「頼もしい」素振りが芽生えてきた。そこに、「遊び人」特有の「崩れた」表情が加われば、この役柄は完成ということになるだろう。そのためには、口跡の「強弱」を工夫し、「ふっとなげやりな」「ため息混じりの」セリフ回しができるようになるとよい。いずれにせよ、この役柄は、虎順のためにあるようなもの、さらなる精進を期待する。うどん屋の老夫婦(蛇々丸、座長)の「温かい」風情は、まさに「呼吸もピッタリ」で、〈その「温かさ」こそが「遊び人」の(功利的な)心を変える〉という芝居の眼目を、鮮やかに描き出していた。「三人芝居」とはいえ、冒頭で登場したうどん屋の客、二人(花道あきら、春大吉)の風情も「格別」、舞台を引き立てるためには、なくてはならない存在である。そのこと(端役の意味)を、理解し、「あっさりと」しかも「きっちりと」その役目を果たせる役者がいることが、この劇団の「実力」なのである。舞踊ショーに登場した、新人・赤銅誠(「箱根八里の半次郎」・唄・氷川きよし)の股旅姿、立ち姿の「変化」(成長)には驚嘆した。たった半年で、こんなに変わるものなのか。彼の変化は舞踊だけではない。役者を紹介する裏方アナウンスも、「立て板に水」のよう、堂に入ってきた。女優・生田真美、春夏悠生の舞姿も「基本に忠実」、上品な風情で、成長の跡が窺える。明日は千秋楽という舞台で、春日舞子は「裏方」に徹していたため、その艶姿を観ることができなかった。誠に残念だったが、新人連中の「たしかな成長」は、その穴を埋めるのに十分であった。終演間近、座長の話。「私が座長を務めるのも虎順が十八になるまで、あと1年くらいでしょう。それまで、どうか私の舞台姿を胸に刻み、眼に焼き付けておいてください」。その言葉は、人によっては「傲慢」と聞こえるかも知れない。しかし、私は無条件に納得する。彼は、自分の舞台姿、歌唱の歌声を、一切、記録に残そうとしない。なぜなら、今、この時、に「すべてを賭けている」からだ。言い換えれば、今、目の前にいる「お客様」を何よりも大切にしているからだ。客が観ていないとわかれば、早々に芝居を切り上げる、それが鹿島順一の「真骨頂」なのである。自分の姿をCDやビデオに残さない、だから「今の姿を観てください」と彼は言っているのである。まことに寂しい限りだが、「一期一会」とは、、まさにはそのこと、芸能の基礎・基本であることを銘記しなければならない。
(2008.9.18)