梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

人はなぜ生きるのか

 人はなぜ生きるのか、複雑なことはわからない。動物だから、「死ねないから」生きるのだろう。「なぜ生きる」なんて考えないから、生きるのだろう。でも、「どうやって生きるか」ぐらいならわかる。人は「話して」生きるのである。今は亡き、落語の名人・桂枝雀が「饅頭こわい」という噺の枕で述べていた。「人間とは、唯一、無駄話をする動物である」。おっしゃるとおり、人が生きていくうえで、最も大切なものは「話し相手」だと、私は思う。人間が社会的動物であり、独りでは生きていけない所以も、そこにある。ためしてみるがよい。いったい私たちは、何日間「無言」でいられるか。閉ざされた空間の中で、誰とも言葉を交わすことができない、といった拘禁状態に置かれた途端、その人間の心理状態は極めて不安定になり、いわゆる「神経症」、いわゆる「心因反応」、いわゆる「うつ状態」、いわゆる「幻覚」、いわゆる「妄想」等々の症状が生まれることは間違いない。話し相手と無駄話をすることによって、私たちの心は安定する。今、共に、生きている、お互いが、お互いを必要としている、息遣い、心情を共感・共有しているという実感が、生きていることの安心・安定、喜び、充実感、責任感、使命感をもたらすのである。
  さて、人間の原点・(3歳未満の)「乳幼児」にとって、 この大切な「話し相手」とは、言うまでもなく「母親」である。当初は、授乳、抱っこ、おんぶ、添い寝などのスキンシップを土台としながら、声のやりとりを通して、乳幼児は安定する。つまり、人が生きる出発点には、「母親」の存在が不可欠なのである。人は母親を話し相手として成長する。ところがである。昨今の日本社会においては、乳幼児の話し相手が確固として存在しているようには思えない。男女平等の理念のもとに、女性の働く権利は守られなければならない、育児の分担は当然、保育園、託児所に預けることはあたりまえといった風潮が蔓延しているが、、2000年(人類全体ではそれ以上)の歴史において、そのような育て方は、まだ、せいぜい50~60年しか経験していないのである。誰もがしているからといって、その方法が適切だとは限らない。その結果が、吉と出るか、凶と出るか、さらに50年経たなければわからないのではないか、と私は思う。
 いずれにせよ、これからの人間は、その出発点から「話し相手」を探し求めなければならないという苦境に立たされることは明白、その後の安心・安定もおぼつかない。結果として、いわゆる「神経症」、いわゆる「心因反応」、いわゆる「うつ状態」、いわゆる「幻覚」、いわゆる「妄想」等々の症状が流行・拡大・蔓延するだろうことは、確かである。
(2009.11.4)