梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第3章・《再会》

 生きているときは誰かが欲しいのか。「一緒に生きる」とは、同居することではない。その人のことを「想う」ことであり、面影を抱くことである。心の中にぽっかりと穴があくのは、その面影が消え去ったと言うことであろう。
今、私の心の中に誰の面影も浮かんでこない。それを「さびしい」と感じるか、「きれいさっぱり、せいせいした」と感じるか、それが問題である。そう言えば、妻に誘われて『風とともに去りぬ』という映画を見たことがあった。彼女にとって、それは究極の映画であり、何度見ても飽きることはないと言った。妻自身、その容貌といい、言動といい、主人公スカーレットに酷似していたと思う。当の私は、似てもにつかぬバトラー役を演じる羽目になったが、去りゆくクラーク・ゲーブルの「男らしさ」の中に、えもいわれぬ「さびしさ」を感じてしまったのは、甘えであろうか。
 いずれにせよ、「去る者は追わず、来るものは拒まず」と呟きながら、今日もまた、「シロ、散歩に行こう」と呼びかけて家を出た。いつもより、シロの足取りが力強い。ぐいぐいと私を引っ張っていく。いつのまにか、住宅街をぬけ、高架線をくぐって、駅前の公園に着いていた。
 シロは、私の方をふり返り、一言、大きく吠えた。
「ワン!」
 するとどうだろう。噴水の向こうに、あの時の老婆と娘がたたずんで、こちらを見ていたのだ。シロは、さらに力を込めて、ぐいぐいと私をそちらの方に引っ張っていく。
私は「苦笑い」を装いながら、二人と挨拶を交わした。
「どうも、先日は失礼しました」
 車椅子の老婆が答えた。
「こちらこそ、先日はありがとうございました。あれから、またお目にかかれないかと、毎日、ここに来ていたんですのよ。やっとお目にかかれましたね」
「そうでしたか、ちょっと忙しかったものですから・・・」
 私は、嘘をついた。(嘘をつけ、毎日来ていたのはお前の方ではないか。嘘をついているのは向こうの方だぞ。)というシロの声が聞こえた。
「ここにお座りになりませんか」、と老婆はベンチを指差した。
「そうですね」と応じて私はベンチに腰掛け、シロも「伏せ」の姿勢で座り込んだ。
「おりこうそうなワンチャンですこと、名前は何とおっしゃるの?」
「シロといいます」
「そう、シロですか?おいくつ?」
「迷い犬だったので、よくわかりませんが、家に来てから三年になります」
「そうですか」
 娘は、終始だまって私たちの会話を聞いている。
「シロはね、私と会話をしますよ」、と私が言うと、老婆は目を輝かせた。
「まあ、面白そう、どんな会話ですの?」
「私が話しかけると、返事をしてくれます。ハイの時は『ワン』、いいえの時は『ワン・ワン』、わからないときは『ウーン』と言うように・・・・。」
「あら。ステキ!」
「試しにやってみましょうか?」
「ぜひ、お願いします」
「シロ、今日は、駅まで散歩に来て良かった?」
「ワン」
「今日は、みなさんに会えると思ったの?」
「ワン」
「じゃあ、みなさんのお名前を知っていますか?教えてください」
「ウーーン」
「お名前を聞くなんて、失礼かな?」
「ワン・ワン」
 老婆は、涙を浮かべた。
「本当におりこうなワンチャンですこと!そうですね、まだ名前を申し上げておりませんでした。私は花形ユキと申します。これは、娘でマリ子と申します。どうぞよろしく、お願いいたします」
「こちらこそ。私は新庄 晃と言います。名字が新庄ですので、みんなジョーと呼んでいます。これからはジョーと呼んでください。目下、独身です」
「わかりました。」
 老婆は、黙っている娘を見やりながら、「マリ子、ジョーさんにお茶さし上げたら?」と言った。マリ子と呼ばれた娘は、うなずきながら車椅子のポケットから魔法瓶を取り出し、そのキャップにお茶を注いで、私に手渡した。恥ずかしそうに、伏し目がちでキャップを差し出すしぐさが、「深窓の令嬢」のように感じたのは思い過ごしだろうか。
「ありがとう」
そう言って、私は一気にそのお茶を飲み干した。
「・・・・?」
私は、思わず娘の顔を見た。それまで見せなかった、いたずらっぽい表情が私を見返した。
「お嬢さん、やりましたね!これは、まいった」
「どうかなさいましたか?」
老婆が、怪訝そうに問いかけた。
「ええ、お茶だとばっかり思っていたら、お酒だったんです!」
「まあ、マリ子ったら!」
老婆の表情が崩れた。
「ごめんなさいね、ちっとも知らなかったわ」
「いえいえ、この方が私にはうれしいんです。嫌いな方ではないですから」
そう言えば、こんな場面をどこかで見たことがあると、私は思った。そうだ、大昔に見た映画『お嬢さん乾杯』の一場面だ。元華族の令嬢・原節子が、田舎出の若社長・佐野周二を自宅で接待する場面だった。
「そうですか、それはよかった。じゃあ、マリ子、駅の売店で何か肴になる物を買っていらっしゃい、私はジョーさんのお相手をしていますから」
老婆は、娘から魔法瓶を受け取ると、私のキャップに酒をつぎ足した。
「いえもう、どうぞおかまいなく・・・。」と言いながら、私は内心、期待していた。最初に「わけあり」と直感した、その謎が解けるかもしれない。
娘は、駅の売店に向かった。老婆は娘の姿が見えなくなると、問いかけてきた。
「失礼ですが、ジョーさんのこと、少しお訊ねしても、よろしいですか?」
「どうぞ、どうぞ、何なりと、聞いてください」
「さきほど、目下、独身とおっしゃいましたが、奥様は亡くなられたのですか?」
「いいえ、生き別れです。娘も二人いましたが、一緒に家を出ました」
「まあ! では、お寂しいでしょうね」
「はい、今は、このシロだけが伴侶です。でも、自業自得ですから、しょうがないと思っています」
「今は、離婚される方が増えているようですね」
「私たちの世代は、戦後の混乱期に育ちましたから、そんなことが影響しているかもしれませんね」
「と、おっしゃいますと?」
「父親が戦死して母子家庭だったり、母親が父親の弟と再婚したり、母親が病死して父子家庭だったりというように、家族のつながりが揺れ動いていたような気がします」
「ジョーさんのお家もそうでしたの?」
「まあ、似たようなものですね」
そこへ、マリ子が帰ってきた。老婆と私は今の話をさとられないように、作り笑顔で彼女を迎えた。
「ごくろうさま、何かおいしそうなものがあった?」
マリ子は、袋の中からピーナッツ、サラミ、チーカマを取り出して見せた。
「あらあら、では、私はピーナッツをいただくわ。ジョーさんは何にします?」
「私は、チーカマをいただきます。『チーカマを 開けてから飲む ワンカップ』と行きましょう!」
 突然、老婆が笑い出した。マリ子もつられて笑い出した。
「おもしろそう! 何ですのそれ?」
「いえ、つまらない戯れ言ですよ。チーカマを肴にワンカップを飲むときは、はじめにワンカップのふたを開けてしまうと、チーカマの袋を開けようとするときに、酒がこぼれてしまう、だから、はじめにチーカマの袋を開けなければならない、という意味ですよ。でも、私は早く酒の方を飲みたくて、ついワンカップの方を先に開けてしまうんです。くだらないでしょう?」
今まで、居眠りをしているように静かだったシロが、ふいと立ち上がり吠えた。
「ワン・ワン・ワン、ウーーン」
マリ子は、手早くサラミを取り出すと、手に乗せてシロに食べさせた。シロはうまそうに食べ終えると、マリ子の手の匂いを嗅ぎ、身体をすり寄せていく。
 その様子を見て、私は言った。  
「シロは、マリ子さんが気に入ったようですね」
老婆が答えた。
「マリ子も、シロが好きになったみたい!」
シロが、さかんにマリ子に飛びかかろうとする。マリ子もシロを抱きかかえようとして、しゃがみ込んだ。
「そうか、シロ。お嬢さんと散歩がしたいのか。わかった、わかった。じゃあ、公園を一回りしておいで」
 私は、シロのロープをマリ子に手渡し、「お願いします」と目で合図した。マリ子はロープを握って歩き出した。シロは、マリ子に従って静かについていく。
「だいじょうぶかしら?」
「だいじょうぶですとも、シロはお嬢さんのボディーガードぐらいにはなれますよ」
 老婆は、マリ子とシロの姿が見えなくなると、催促するように問いかけてきた。
「あの、さきほどのお話ですが・・・。」
「そうそう、途中でしたね。」                        
私は、どこから話し始めてよいものやら、思案した。長くなりそうだと思いながら、(まあいいか、今日は途中までで、次に会うチャンスになれば、と考え)、とりあえず、子ども時代のことから話してみようと思った。
 「私の実家はは栃木の農家です。兄弟が八人もあり、私は末っ子でしたので、長姉の養子にさせられました。実母と養母がいて、その養母が姉だというのは、なにかおかしな感じです。養父は、実父のてまえ、私を優等生に育てようと思ったのでしょう。躾や学校の成績のことを、やかましく、口にしましたね」
 「ずいぶん、苦労されたのでしょうね」
「いえいえ、そんなことはありません。当時は友だちがたくさんいましたから。みんな、不思議と欠損家庭の子が多かったですね。類は友を呼ぶ、ということでしょうか。家よりも友だちといる方が楽しいという子ども同士が集まるんです」
「わかるような気がしますわ」
「だから、気持ちは家の外に向いていて、勝手なことばかりしていました。早く、こんな家を飛び出して自由になりたい、独立したいという気持ちは、人一倍強かったようです。でも、高校までは優等生になろうとする『振り』はしていましたよ。やはり、自分では稼げないという弱みがありましたから」
「ジョーさんと同じ世代の人たちは、みんなそのようなお考えだったのでしょうか」
「それはわかりません。私は特別ではないでしょうか」
「そうかしら?」
魔法瓶のキャップにつがれた酒を三杯ほど飲み終え、私は言った。
「花形さん、この話は長くなりそうです。また、お目にかかれないでしょうか」
老婆の目が輝いた。
「まあ! うれしい」
 老婆と私は自宅の電話番号を書いたメモを交換しあった。
やがて、マリ子とシロが戻ってきた。
「シロ、お嬢さんと散歩ができてよかったね。楽しかった?」と、私は声をかけた。
 シロは。一言「ワン」と応えた。マリ子は、無言で微笑みながら、私にロープを手渡した。
(2006.7.20)