梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「プロローグ・海」(2)

    一時間ばかりたったころでしょうか。窓の景色をながめているはずのK子さんが唄うようにつぶやいたのです。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」
 そのとたんに汽車がガタンととまって浜辺の駅につきました。ボクが待ちに待っていたそのときに、またもやK子さんのつぶやきによって驚かされ、ボクはオロオロしてしまいました。教養のある人はちがうんだなと思っておそるおそるK子さんを見上げると、K子さんはボクの前に仁王立ちになって言うのです。
「海についたのよ。どうしたのそんな情けない顔して。涙をおふきなさい」
 ボクはまたまたドッキリ心臓がとまるくらい驚いてしまいました。なぜというに不覚にも涙を流していたのです。いったい本当にどうしたというのでしょう。それにもましてK子さんは地下鉄の中で居眠りをしていたときとは比べものにならない程、生き生きとしているのです。駅のホームにおり立って、ボクは涙をふきながらよこ目でK子さんの顔をチラリと盗み見ました。そういえばK子さんとは地下鉄以来ずっと並んで歩いていたので、K子さんの顔を正面からながめたことは、居眠りの寝顔を除いてはなかったのです。世間話の時は、うつむいて脚ばかりながめていました。今、K子さんの眼には海のキラキラした輝きが映ってダイヤモンドのようだなとボクは思いました。それからボク達は浜辺の駅から、菜の花畑の間を通って一気に砂浜までかけおりました。そこから東の方に少し行くと岩の海岸があるのです。ボクの忘れ物があるとすればたしかそのあたりのはずです。なぜというに初めてといっても今日の朝のことなのですがここに来たときに、ボクはその岩の海岸に半日腰をおろしていたからです。そして帰ろうとしてそこをはなれようとしたとき、かすかではあるけれどボクの胸はジーンと鳴りはじめたのです。K子さんはその砂浜に立って海の青さをかみしめるように、大きく息をはずませています。ボクは早く岩の海岸に行こうと気がせいて「向こうの方へ行ってみませんか」と言いながら東の方を見やりました。しかしそのとたんボクは驚愕して膝をつきました。岩の海岸がないのです。今度こそ本当に泣き出すかもしれない自分のことを考えてボクはその場にしゃがみ込んでしまいました。ふと眼にはいったK子さんのハイ・ヒールの先端が槍のようにとがっていて、それがボクの胸をチクチク刺すのです。ボクは後悔しました。いっときも早くK子さんから逃げ出したいと思いました。ボクの泣き声を、初対面のK子さんなどに聞かれたくないからです。「K子さん。無理やりお誘いしてすみませんでした。ボクはもう町には帰りません。どうぞボクのことは気にしないで自由に行動してください」ボクはヤケクソになってそう言いました。するとK子さんは、そのときはじめてボクに気がついたというふうにして言うのです。
「あたりまえよ。あたしは町には帰らないわ」
それきりボク達は黙ったままでした。それにしてもK子さんが一人ではしゃぎまわればはしゃぎまわる程(彼女のウキウキする気持ちは人目にもそれとはっきりわかるのです)、このボクの気持ちが一層沈み込んでしまうのは何故なのでしょう。ボクはその何もない砂浜に仰向けに寝ころんで空を見上げました。だんだん日の光が淡くなって、空の色が灰色に近くなって来ます。夕闇がここにも迫ってくるのでしょう。ボクは胸が一層ジーンと鳴りひびいてくるのを感じながら、口の中が乾いて息苦しくなりました。かすかな嘔吐感も伴っているのです。異常だな、そう思うとちょっと絶望的になって寝返りを打ちながら、指を喉の奥まで突っ込んでゲエゲエ言うのです。涙がジワジワ染み出て来ました。フンとか何とか鼻をならしてボクは甘えました。
(1966.3.20)