梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「プロローグ・海」(1)

    どうやら、あの浜辺に何か忘れものをして来てしまったらしいのです。そしてそれがいったい何であるのかたまらなく確かめたくなって、ボクはその浜辺に引き返すことにしました。その上、その忘れものとそれを確かめにあの浜辺に引き返そうとするボクの「事実」を証明するために、K子さんという大学生に一緒について来てもらうことにしました。K子さんは、ボクが浜辺に引き返そうとして乗った地下鉄の中で居眠りをしていた人で、ボクとは初対面でした。あの浜辺はボク達の住んでいる町から十里ほど隔たった鉄道線路沿いにあります。ボク達は地下鉄を降りて汽車に乗り換えました。K子さんは地下鉄の中からずっと黙りどおしでした。というのも初対面の人に、ボクの身勝手な頼み事をいきなりおしつけるのは失礼だと思って、ボクはただ「海にいきませんか」と誘っただけだったからです。K子さんが大学生であることは、胸のバッチでわかりました。汽車に乗ってしまうと、何だかK子さんのことをだましたような気がして、ボクは頼み事を打ち明けようと思いました。でも初対面ということが気になって、なかなかその気になれないのです。そこでボクは世間話でもすることにしました。 「金曜日になるとヒコーキがおちるのは不思議ですね」ところが、K子さんは、ボクの存在をまるで気にしないふうに窓の景色をながめながら平気で言うのです。 「ヒコーキがおっこちるのはあたりまえよ、あんなに重たいんだから」ボクはもうすっかり恐縮してしまって、なるほど大学生は頭がいいんだなと思いました。それからは何か言うとK子さんに笑われるようで、一言も口がきけなくなってしまい頼み事どころではありませんでした。そこでそのことはあきらめ、ボクは腕を組んで目をつぶることにしました。あの浜辺で何を忘れて来てしまったのか思い出すためです。胸がジーンと鳴って、それが全身にしみわたるようです。だんだん熱がでて来て眼をしっかりとつぶっているはずなのにとてもまぶしくてあけられない程になりました。ボクは、これは異常だなと思いました。何が原因なのだろうか、しかしどのみちあの浜辺の忘れものに関係があるに違いないと決めこんで、ひたすらこの汽車がいっときも早くあの浜辺の駅につくことを待ちながら、我慢していたのです。町ではボクのやらなければならないことが沢山あるような気がします。それだのにどうして浜辺に引き返そうとなどしているのでしょう。忘れものにもそれほどの確信はボクにはないのです。ボクは一層しっかりと眼をつぶって我慢しました。
(1966.3.20)