梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・センチメンタル・バラード(5)

    公園の向こうの、森の中のベッドに、美智子とかいう女の子が、生まれたばかりのコドモと一緒に横たわっているのを、ボク達は知っているだろうか。知らない。ボク達は見なかった。だが、ボク達は見た。おまわりが倒れていた。何のために。守るために。守られただろうか。国会議事堂には、ピストルを積んだトラックと一緒に、倒れていないおまわりが、並んでいるかもしれない。流産した恋人は、ボクを見た。愛しているのね。苦しんでいるのね。しあわせではないのね。おかしい。電気ゴタツが、サーモスタットでついたり消えたりするように、あちこちでおこる「小ぜり合い」はむなしくない。恋人は国会議事堂まで駆けただろうか。ボクはたたかいを見なければならない。おまわりは木刀を抜いた。敵はどこにいるのですか。おまわりさん、味方は誰で何を守るために、あなたはそのように木刀をぬくのですか。血が流れていたかもしれない。公園から森を通って、国会議事堂まで。恋人のからだに飽きたとき、ボク達はねた。この室にはベッドがないわね。とてもしあわせなのね。ボクの仕事はどこかにあるかもしれない。ボク達の生活はあるかもしれない。それは、おまわりのようなたたかいかもしれない。おまわりはきらいだ。公園の噴水が青い色から赤い色にかわって、ボクと恋人はすべてを忘れるために、流産のことについて討論した。苦しまなかったわ。しあわせだったわ。むなしくなかったわ。恋人のからだのことを思い出してはいけない。ボクのからだのことを思い出してはいけない。ボクと恋人は、つかれた。眠い。ボクは自分がみじめかもしれない。むなしさを愛さなければならないことは、みじめだろうか。流産はみじめだ。しかし、流産のあとに安産を夢みることは、それ以上にみじめだということを、ボクは知っている。おまわりは、恋人の流産のことを、あるいは美智子とかいう女の子の安産のことを、知っているか。おまわりは、みじめではないか。おまわりは流産したか。
(1966.4.20)


【補説】あれから45年、日本に「貧乏」はなくなった(かに、見える)。だが、心の「貧乏」は、ますます拡大・蔓延し、まさに今は「修羅」「畜生」「餓鬼」の世界、いずれ「地獄」と化す日も遠くないだろう。そんな時、あのブルースが私の心中に響きわたる。「夢をなくした奈落の底で 何をあえぐか影法師 カルタと酒にただれた胸に なんで住めよか なんで住めよか ああ あのひとが」(「赤と黒のブルース」、作詩・宮川哲夫、作曲・吉田正、唄・鶴田浩二)
(2011.5.1)