梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

《限界寿命》

 「健康寿命」が尽きてしまった後の寿命は何と呼べばいいのだろうか。ただの寿命というべきか、それとも余命か、いずれにせよその「命」はきわめて不安定、いつ何があっても(死が突然おとずれても)おかしくないのである。「限界集落」という言葉に倣えば《限界寿命》と言ってもよさそうだが・・・。その実態は以下の通りである
 まず1日24時間のうち14時間は「不快感」(気持ち悪さ)で占められている。逆流性食道炎による(?)「吐き気」「胸焼け」「腹部膨満感」、後鼻漏に伴う「鼻づまり」、「息苦しさ」、「痰の絡み」、「幻臭」、全身の乾燥肌・痒み、さらには脊柱管狭窄症からくる腰痛、間欠性跛行、最悪時には体温の上昇、血圧の上昇、動悸・息切れ、倦怠感といった「症状」が、次から次へと、場合によっては同時に、襲来する。生きることが「一切苦厄」(苦しみの連続)であることは、健康寿命が尽きたとき、はじめて(体験として)実感できる。
 仏道では「その苦しみから逃げることなく、まず受け入れることがだ大事だ」と、強調されている。苦難と向き合い、苦難を味わわなければ、それを超えること(度一切苦厄)はできない。だから、ジタバタしないで、襲来する症状を受け入れ、耐えることが肝要だ。耐えていればいるほど、より大きな苦難にも耐えられるようになるかもしれないではないか。苦しいのは生きているからだ。死んでしまえば苦しみは感じない。だから苦しければ苦しいほど「生きてる証拠」を確認できるのだ。まだ生きている。そしてこの苦しみ続く限り、私は「生き続ける」ことができるのである。
 そんなにまでしてお前は生きたいのか、という声も聞こえる。その通り、生きるのは自分のためではない。周囲に1人でも私が生き続けることを望む人が居る限り、私は自分から死ぬわけにはいかないのである。
(2020.11.28)