梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「聲の形」(監督・山田尚子・2016年)

 テレビで放映された映画「聲の形」(監督・山田尚子・2016年)をDVDに収録、鑑賞した。このアニメーションはウィキペディア百科事典では、以下のように紹介されている。
 〈『映画 聲の形』は、京都アニメーション制作の長編アニメーション映画。2016年公開。監督は山田尚子。原作は大今良時による漫画『聲の形』。第40回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞、第26回日本映画批評家大賞アニメーション部門作品賞、第20回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞、東京アニメアワードフェスティバル2017アニメ オブ ザ イヤー作品賞 劇場映画部門グランプリ受賞作。文部科学省タイアップ作品。主人公の石田将也と先天性の聴覚障害を持つ西宮硝子を中心に、人と人との繋がりやディスコミュニケーションを描く。キャッチコピーは、「君に生きるのを手伝ってほしい」〉
 多くの老若男女が「感動した」というレビューを寄せているので、期待して観たのだが・・・。後期高齢者となった私自身には、「よくわからない」(今どきの若者の心情とは断絶している)というのが率直な感想である。
 小学校時代の場面が描かれていたが、そこに登場する学級担任、「聞こえの教室」(難聴学級)担当、校長等の教師群に全くの《生気》が感じられない。西宮硝子が6年のクラスに転入・紹介する(出会いの最も重要な)場面で、学級担任は「ただ事務的に」接するだけで、事前の準備や配慮が全く行われていない。「聞こえの教室」担当も、硝子に対する「聴覚(治療)教育」を行うべき立場にありながら、学級児童に「手話」を勧める始末、校長に至っては、硝子の補聴器が8台も壊され170万円もかかったという母親からのクレームを「学級会で紹介するだけ」、教育公務員としての責務を全く果たしていない。これが荒廃した現在の学校だと思うと、開いた口がふさがらなかった。
 さて、肝心の主人公・石田将也、西宮硝子の「心情」もよくわからない。「虐める」から「虐められる」という立場に変わって、孤立。孤独感が恐怖感に変わったことを、登場人物の顔に✖印をつけることで、将也の心情を表現しようとしたようだが、あまりにも「マンガチック」で噴出してしまった。アニメ表現もここまで「デジタル化」したか!
 また、将也は硝子と「手話」でやりとりができるようになったが、彼女の「口話」(音声言語)を《耳が聞こえているにもかかわらず》理解できない。感情が高ぶった時、どうしても相手に伝えようとしたい時、思わず「声が出てしまう」のが自然である。だから「手話」だけに頼っていては、相互の「心情の交流」は難しいのだ。まず声で、次にサイン(表情、ジェスチャー、手話・指文字)で、というのがコミュニケーションのイロハである。
 さらに、石田将也、西宮硝子の「親子関係」「家庭環境」も判然としなかった。ともに父親不在(シングルマザー?)、母親は放任型?、溺愛型?、将也の孤独感、自殺決行までその気配に気づかない。硝子には妹がいるが、不登校で家出の常習。硝子が補聴器を壊されても170万円になるまで放っておくとは・・・。いずれにせよ、昔の「親心」「母性本能」とは無縁のように感じられた。
 要するに、登場人物すべてが「ドライ」(乾いている)のである。登場人物だけではない。映画製作スタッフもまた・・・、もしこの映画を通して「聴覚障害」の女性も含めた青春群像を描こうとするなら、当然、聴覚障害の観客・視聴者がいることも想定するはずである。しかし、画面に「✖」という記号は貼り付けられてはいたものの、セリフを視覚化した「字幕」を見出すことはできなかった。登場人物の西宮硝子同様に、画面だけでストーリーを想像する他はなかったのではないだろうか。
 世界に誇る「京都アニメーション」の作品としては、あまりにも《乾きすぎている》、と私は思った。 (2020.8.3)