梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・33・《第10章 事例》(12)

◎要約
【出版されている六つの論文】
《6.パーク「包囲・・自閉症児との接触のための闘い」》(エリー)
・この本は、自閉症児を救おうとした家族の苦闘の物語であり、両親の熱心な努力、適切な措置、率直に報告されている過ちなどからみて、きわめて重要な問題を提起している。
・この本は、これまで紹介してきた他の本に比べて、「全体としてよく知られており」、専門家の評判もよい。(その理由が、事例の「成功」によるものか、「教育可能性」という考えによるものかは、わからないが・・・)
・エリーは1958年7月、四人兄弟の末っ子(上に二人の姉と一人の兄がいる)として生まれた。出産時(出生時)には健康と思われた。
・7週目には笑った。
・2か月の時、ものに手を出すようになった。
・5か月の時に撮ったスナップ写真では、カメラを見て笑っている。
・8か月の時に撮った写真では、まじめな顔をしてカメラを見つめている。
・8か月の頃、近所の人が、だいじょうぶかどうか疑い始めている。
・エリーは非常におとなしく、おっとりしていた。
・12か月の時、エリーは「イナイナイバー」遊びをしなかった。
・1歳6か月頃から両親はますます不審に思い始めた。(ほとんど視線が合わない。人に笑いかけることが少ない。ごくわずかのおもちゃだけで機嫌よく遊んでいる。ちょっとした日課の変化で荒れてしまう。正常なことばの発達がみられない。触覚、視覚、聴覚的知覚が欠如しているようにみえる、抱き上げられたり触られたりするとからだの力が脱けてしまう。他の人の手を道具のように使う、探索をしない等)
・1歳7か月、母親はエリーが「指さし」をしないことに気がついた。
・1歳10か月の時、時折2、3語話した。
《何がエリーを自閉症にしたのか》
・この子の出産は計画されていたものではなく、あまり望まれてもいなかった。(母親は男の子でなかったことに失望している)
・母親はしたいと思っている仕事に就けなくなった。
・妊娠6か月の時、母親がハシカにかかった。
・エリーは生まれてまもなく激しい腹痛を起こした。(温かい母子関係をつくる障害になる)
・母親は9か月間母乳を与えそれを楽しんでいたが、4人目の子どもだったのであまり注意が注がれなかった。
・6か月の時、エリーは軽い水ぼうそうにかかった。(医師は「なんてかわいい赤ちゃんだ」と言ったという)
・2歳の頃、母親はパートの仕事に出かけ、エリート一緒にいると「うんざり」してしまうことがあったと述懐している。
・4歳の時、両親は家族全員を連れて英国とオーストリアへ行った。エリーは初めは食べ物や飲み物を拒絶するほど強いひきこもり反応を示した。
・この年にロンドンのクリニックで診てもらい、母子で心理療法を受けた。
・しかし、両親はエリーを「信用できる人」に預けて、11日間パリに出かけている。
・英国では、非常に優れた分析家が2回家を訪れ、エリーを普通幼稚園に入園させてくれた。そのことは「これまでの、どのことがらよりもよい効果をもたらした」。
・両親はエリーのことを心配して、いいと思うことはできるかぎり何でもやってみたが、多くの書物を読んでは混乱し(さまざまな矛盾した意見や助言に直面し)、結局は自分たちの考えで、しだいに「自己流治療」の親になっていった。確かに、認めるべき成功を収めてはいるが、部分的なものに過ぎないことも否定できない。
・両親は、ウィング、ローバス、ベッテルハイム、デラカートの考えは「役立つ」と考えているが、エリーに何を試みるかを決める時には、頭で考えた児童発達観を基にしていたように思われる。にもかかわらず、しばしば「最良の自己流治療」も行っている。また、英国に行くとか、パリ訪問中の「置き去り」とか有害な行動もしている。
・両親は、エリーをかわいがり、よく育て、何とか子どもを救おうと努力し、彼女を家族の中に置いて、かなりの感性をもち創意工夫を凝らしてきたが、「子どもが十分に回復しうる」(自閉症は治る)という確信がやや欠けていたと思われる。
・おそらく、母親は疲れ切っていたのであろうが、自閉症の子どもは知的な刺激を受けるだけでなく「ひたすら母性的な愛護」を受けることが必要だということに、十分に気づいていなかったのであろう。
*この本では一貫して技術面と知的発達に重点が置かれ、対人的・情緒的側面は軽視されている。そのことが、エリーの回復の不完全さの原因になったのではないだろうか。
・エリーは12歳の頃から16歳頃まで、彼女独特のきわめて精緻な言語を発達させていた。その中では、数が、その他のシンボルとともに主要な役割をはたしていた。彼女は、非数量的記号と数とを結びつける一貫したコードをもっていた。著者等は、このルールないしエリー特有の「文法」をかなりよく理解できたと書いている。また、この言語はエリーによって創作されたものであること、彼女はいつも「われわれに先んじていた」こと、誰かが彼女を理解したということが彼女の大きな喜びであるように思われたということを強調している。このような発達は、エリーは(16歳になってもまだ)人とのコミュニケーションがひどく障害されていた(それは情緒的不均衡による二次的な結果にすぎないと思われるが)ので、自分にとっての「高い能力の片鱗」のひとつを基にして、完全な意味をなす特別な種類の言語を作りあげたということではないかと思われる。悲しむべきことは、父親とその同僚がその「暗号」を解読することに成功するまでは、エリーは自分以外の誰からも理解されなかったということである。彼女はコミュニケ-ションへの衝動を、自分自身に話しかけることによって満足していた(と思われる)。彼女がこのような衝動をもっていたことは、ある程度しゃべっていたこと、手紙を書いていたこと、時々人にわかってもらえなかった時などにものすごいスピードで数字を使って伝達内容を書いていたこと、などの事実から明らかである。
・エリーの、この悲しくも魅力的な物語は「自閉症児のもつ優れた能力の片鱗はどの程度まで奨励すべきか、どの程度思いとどまらせるべきか」という問題を提起している。エリーは、ひとりだけの暗号を、自分の不十分な言語発達に対する次善の策として獲得した。少なくとも彼女は何かを創造することができた。しかし、もしもエリーが「情緒的レベル」の治療を受けていたら、ずっと幸せなエリーになっていただろうと思う。(自閉的脱線が子どもの思考の上にもたらす影響についての研究にとって、彼女はたいへん有益な研究対象でありうる)
・しかし、エリーの回復は、まだ希望がある。治療の軌道を変えれば「これまでの経験を客観的にユーモアをもってながめられる」ようになることも可能であろう。


《感想》
 この事例は、両親がウィング、ローバス、ベッテルハイム、デラカートら「専門家」の考え方を参考にして、「自己流治療」を行った経過・結果が詳細に記されており、「手元に置いてくり返し熟読するに価する」と著者(ティンバーゲン博士夫妻)は述べている。ただし、その内容は「一貫して技術面と知的発達に重点が置かれ、対人的・情緒的側面は軽視されている。そのことが、エリーの回復の不完全さの原因になったのではないだろうか」とも述べており、「批判的に読む必要がある」。この本は「専門家の評判もよい」そうだが、おそらく両親の考え方が「自閉症の発生要因」は「先天的な脳の器質的障害」にあるという説に近かったためではないだろうか。事実、エリーは第四子であり、同じ両親に育てられた姉や兄には「異常」はなかったのだから、「異常」の原因はエリーの方にあると考えてもおかしくない。だがしかし、同じ両親に育てられたという事実は、「同じように育てられた」ことを意味しない。四人の子どもたちは「四者四様に育てられた」と考える方が正当であろう。エリーの「出産は計画されていたものではなく、あまり望まれてもいなかった。(母親は男の子でなかったことに失望している)」。また、「4人目の子どもだったのであまり注意が注がれなかった」とも記されている。そうした環境に加えて、出生直後の「激しい腹痛」もエミリー固有の「経験」に他ならない。エミリーは7週目には笑い、2か月の時、ものに手を出すようになり、5か月の時に撮ったスナップ写真では、カメラを見て笑っていたが、8か月の時に撮った写真では、まじめな顔をしてカメラを見つめ、近所の人がだいじょうぶかどうか疑い始めている(おそらく「人見知りをしない」)、というような経過で、徐々に「ひきこもり状態」に陥っていった。以後、典型的な自閉的状態を示すようになるが、両親はエミリーをかわいがり、いいと思うことはできるかぎり何でもやってみたが、「ひたすら母性的愛護」を与えることだけは「不十分」だったようである。その結果、回復は部分的なものにとどまり、16歳になってもまだ「容易ならぬ障害」(コミュニケーション障害)をもっており、音声言語によるやりとり(対話)が十分にできなかった。ここでも自閉症の本質を「認知・言語の障害」とみるか「情緒障害」とみるかで議論が分かれるだろう。前者では、「自閉症は治らない」のだから、エミリーの「容易ならぬ障害」は当然であるという絶望に帰結し、後者では、それは「情緒不均衡による二次的な結果」に過ぎないのだから、今からでも「回復可能」という希望につながる。さて、どちらの説が正しいか、というより、あなたならどちらを選ぶか、ということが今、私自身に問いかけられているのだ、と思いつつ、第10章を読み終えた。(2013.12.23)