梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・23・《第10章 事例》(2)

◎要約
【六人の自己流治療例】 
《オルガ》(1946年5月生まれ・第2子・姉はヘレン)
・妊娠中は正常であったが、陣痛促進処置をした。体重3500グラム。出産後、翌日になるまで子どもは母親に渡されず、母乳を与えることができなかった。出産後3日目に、オルガは疱瘡にかかり、母子一緒に隔離病棟に移され1週間入院した。オルガは3時間毎にペニシリン注射をされた。泣き叫ぶ声が聞こえても母親はなだめてやることが許されなかった。しかし、そのほかの時間には母乳を与えることができた。完治した後、家に戻ったが、そこは借家で、母親は家賃代わりに家主(独身農夫)の主婦代わりをした。(父親は中東で軍務に就いていた)
・6週間後、再び疱瘡が現れ、母子は再度入院した。そこでは母親がオルガの世話をすることが許された。
・6か月の時、母親には用事のため親友に12時間オルガを預けたが、ひっきりなしに泣いて、食物は何も食べなかった。
・農夫の家では、(農夫が酒びたりのため)母親の心労が重なった。
・11か月の時、母親は子どもたちを連れて、(母親の)父親の家(何の設備も無い小さな小屋)に転がり込んだ。                                                 
・その直後、最初の兆候が現れた。「乳母車をゆすり始め、ある 時は車がひっくりかえった。ベッドも、激しくゆすっていた。                                           
・オルガの父親は除隊、しばらく遠隔地に教職復帰、単身赴任していたが、1947年9月(オルガ1歳4か月)から新居を入手し同居するようになった。母親の弟も同居し、母親の仕事を繁雑にした。
・オルガの身体発達は年齢並みであったが「固形物をたべなかった」「ものわかりのいい赤ちゃんだった」。しかし、すぐそばにある物にも手を出そうとしなかったし、手に持たせても持っていなかった。名前を呼んでも反応がなく、聾のようにみえた。母親の顔も、他の人の顔も見ようとしなかった。
・2歳の時、ことばはまだ「ブルーベル」(花の意)という単語一つしかなかった。発音ははっきりしていた。
・3歳の時、音楽に対する異常な関心を示し、母親がオルガを連れて階段を上がっていると「ドレミファ・・・と、まったく正しいメロディーで音階を歌いあげていき」、母親が音階を歌い下げていったら、まねをした。
・3歳から6歳まで、たびたびかんしゃくを起こした。また「びろうど、毛皮、髪の毛」をさわったり、なでたりした。頭を片方へ向けて、自分の指の間から空をのぞいていた。顔をしかめていた。ぐるぐる回っても、目が回る様子はなかった。変わったものに執着して大きな赤い消防自動車とテーブルスプーンをベッドに持ち込み、自分の寝る場所がなくなってしまった。長い距離をつまさきで歩いていた。
・3歳6か月の時、家族で馬のショーを見に行った。ちょっとオルガの手を離したら、あっという間に、馬の後足に抱きついてしまった。
・4歳の時、オルガが食事中に口に入れた食べ物を吐き出そうとしたので「どうしてそんなことをするの!」と言った。子猫を放り投げた時は「かわいそうな子猫、それはひどいことよ!そんなことをしたらもう子猫を飼わせません!」と言い聞かせた。オルガがかんしゃくを起こして大きな声を出した時には、(フラストレーションのためではないかと思い)直観的に彼女を「抱きしめ」、わけを言い聞かせたり、簡単な説明をしたりした。(ウェルチ療法と同じ)
・海の辺りを散歩していた時、オルガはいつの間にか途中の馬小屋にあったバケツをつかんで持っていた。
・4歳半の時、母親の弟から「お母さんのお掃除を手伝いなさい」と言われた時、彼を(一度だけ)まっすぐに見て、きっぱりと「仕事、いっぱい」と言って、そんな大仕事はとてもだめだと言わんばっかりに、拒絶した。
・1951年4月(オルガ4歳11か月)の時、妹メアリーが生まれた。母親は入院、その間、姉ヘレンとオルガは、子どもをかわいがってくれる親切な夫妻に預けられた。そこでは、ピアノを弾かせてもらえた(不協和音を出さなかった)こともあり、「急に花が咲いたように」進歩した。「妹のメアリーが生まれたのは、オルガにとっては天からの贈り物だったと思う。メアリーのおかげでオルガは遊ぶということを覚えたのだから」(母親の回顧)
・5歳の時、入学前の面接をクリニックで受けた。「おそらく脳損傷でしょう。教育不能であることは確実です。経済的自立はまったく望めないでしょう」と言われた。校長への報告書には「重症の自閉症」と書かれてあった。母親は、「脳損傷」などという診断は無視することに決心し「問題はむしろ情緒的なものだ」と思った。「私にとってはオルガはたいへん不思議な子どもでしたけれど、何年かのうちにはきっとよくなると思って、そう信じていました」。
・1951年9月(オルガ5歳4か月)、姉のヘレンがポリオに罹かり入院した。ヘレンは7週間「鉄の肺」(人工呼吸器)に入れられ、その後何年も病院で生活した。(車椅子で地元のグラマースクールに通い、オルガと一緒に過ごした。ヘレンとオルガは「実に姉妹らしい親密な関係」になった。しかし1965年に25歳(オルガ19歳の時)で亡くなった。)「オルガは家族がひどい窮地にあることを感じたようで、家族のために何か用事をするようになったのだと思う」(母親)
・1951年9月下旬、オルガ5歳5か月、メアリー6か月の時、オルガは百日咳に罹った。姉と同じ病院に入院したが、「ベッドからベッドへ跳びまわったり、病棟から病棟をさまよい歩いたり、天井近くの高いところへのぼってしまったりするので、これ以上は預かれない」と言われた。(33歳になったオルガの回顧:「あれは姉を捜そうとしていたのです)
・叔母がオルガを世話するために家に来ていた時、たまたま叔母が雨の中の洗濯物を取り込もうと外に出ている間にドアの鍵をかけて閉め出してしまった。ドアを開けてちょうだいと言われて「ぬれちゃった?おばちゃん}と言った。ほぼ同じ頃、階段の踊り場まで来て、下にいた叔母に向かって「おばちゃん、早く来ないといやですからね」と言った。
・5歳9か月、オルガは(まだ反復言語の段階であったが)公立普通幼稚園に入園した。そこで3年間にオルガは進歩し始めた。
・6歳の時、「おそらく、私たち両親が気づかないうちにこういう問題をつくりだしてしまったのだ」だから「もういちど赤ちゃん段階からからやり直さなければいけない」という結論に達した。
・8歳になった時、文字も読んでいたし、ことばのほうも急に伸びていた。(どのように指導されたのかはわからない)
・1954年9月(オルガ8歳5か月)、「学校」へ移った。しかし1学期を過ごしたあと、家族は転居し、オルガは新しい学校に転校した。ここでは、他の子どもから取り巻かれ、はやしたてられたり蹴られたりした。オルガはやり返したり、口答えしたりすることを知らなかった。その学校は一年と続かなかった・
・1955年1月(オルガ8歳9か月)から1964年10月(オルガ18歳6か月)まで、彼女は六つの異なる学校へ通った。いくつかの学校では不幸な経験をしたし、生活全般にわたるストレスで家族全体が苦しんできたが、彼女を「わかってくれた」学校があったこと、一貫して両親(主として母親)が、熱心かつ信念をもって彼女をケアしたことによって、彼女は成長を遂げ、ゆっくりではあるが完全に回復した。
・1956年、オルガが10歳の時、ハリエットという女の子と初めて安定した友だち関係になった。ハリエットもオルガに似て「孤独」な子だった。ハリエットの家に温かく迎えられ、四人の子どもたちと一緒に遊んだが、まだおかしな行動があったので、他の子どもから「おバカさん」などと呼ばれ、ひどくいじめられることもあった。
・中学入学試験が不合格になり「がっかり」「恥ずかしい思いも」したが、地域の私立学校に通った。そこは、とても楽しく、かなり気楽な雰囲気の学校だった。オルガは成長し、みごとな進歩を示した。賞をもらうようにもなった。
・次の年、オルガはほとんど進歩しなかった(先生をからかったりするやっかい者だった)が、オードレーというもう一人の親友ができた。互いの家に泊まりにいくほどの関係になった。
・この頃から、オルガの自閉的行動はすべてどんどん消えていった。
・13歳の時、オルガは地元のコーラスクラブの会員になった。音楽に対する興味、歌うことに対する興味がふくらみ、オペラ歌手になりたいという野心をもった。
・私立学校を終え、以後2年間は、別の学校に通った。音楽に加えて水泳も教えてくれたが、友だちは全然できなかった。(寄宿舎仲間と通学生の違い)
・18歳の時、王立音楽専門学校に(オーデションと入学試験を受けて)合格した。ロンドンで自活生活が始まり、3年間を「音楽浸り」で楽しく過ごした。時々は、ボーイフレンドとデートもした。
・1968年12月(オルガ22歳)、王立音楽専門学校で歌唱(教師)資格がとれた。           ・その間、精肉会社のアルバイト 店の販売助手の仕事、司書補などで「どんどんふくれる知識欲を満たし」た。
・1978年(オルガ32歳)には、上級司書補に昇進した。油絵も描き展覧会に出品した。
・1981年現在(オルガ35歳)、すっかりロンドンに根をおろし、両親ともよく連絡を取り、よい関係を保っている。フルタイムの歌手になることは無理だとわかって、図書館の仕事のほうで昇進しようと努力している。カルロスオペラグループにも出演し、マクベス夫人の演技では「すばらしい」という評価ももらったりしている。女の友だちも何人かはいるようだが、配偶者としてのいい人はみつかっていない。


【著者注記】
・彼女が「重症の自閉症児」であったことは、まったく疑いの余地はない(L・ウィング博士によって確認されている)。また、彼女が完全に回復したことも、疑いの余地はない。
彼女は最初は健康で正常な赤ちゃんであったが、疱瘡になった時から始まって、「自閉症の発生要因」として挙げられる各種さまざまな環境条件や出来事に直撃された。「発達遅れ」が長年続いていたにもかかわらず、少なくともひとつは、明らかに「すぐれた能力の片鱗」をもっていた。
・彼女の回復についての貢献者は、疑いもなく、母親である。母親は「気づかないうちに親がオルガの障害をひき起こしてしまったのだから、親の努力で回復させてやらなければならない」と決心して、早期からウェルチ式「抱きしめ法」を(ウェルチ以前に)用い、子どもを普通に、しかし非常に幼い子のように扱いこと、赤ちゃん段階から始めること、遊びのような雰囲気の中で励ますこと、必要なときにはしつけること、子どもの前で障害について話をしないこと等々、治療の要点を、自閉症に関する専門的な知識とは無縁のところで、《直観的》にやっていた。
・母親は1976年、自閉症児協会のヨーク会議で体験談を話したが、敵意と誤解に満ちたやり方で拒絶されてしまった。悲しむべきことである。


《感想》
 この事例の、最重要ポイントは〈5歳の時、入学前の面接をクリニックで受けた。「おそらく脳損傷でしょう。教育不能であることは確実です。経済的自立はまったく望めないでしょう」と言われた。校長への報告書には「重症の自閉症」と書かれてあった。母親は、「脳損傷」などという診断は無視することに決心し「問題はむしろ情緒的なものだ」と思った。「私にとってはオルガはたいへん不思議な子どもでしたけれど、何年かのうちにはきっとよくなると思って、そう信じていました」〉という一節にある、と私は思う。つまり、①オルガは、「専門家」(クリニック医師)により「重症の自閉症」と診断された。②しかし、「しろうと」の母親は、その診断を「無視」し、「問題はむしろ情緒的なもの」だと考え、「何年かのうちにはきっとよくなる」と信じた。(楽観的な決意)そして事実、オルガは音楽教師の資格をとり、時にはオペラの舞台に立ち、また図書館司書として「(経済的に)自立」するまでに回復・成長した。もし、専門家の言うことを「無視」しなかったら、どのような結果になっていただろうか。著者いわく〈彼女が「重症の自閉症児」であったことは、まったく疑いの余地はない(L・ウィング博士によって確認されている)。また、彼女が完全に回復したことも、疑いの余地はない。〉まさに、「論より証拠」の典型的な事例であった。〈母親は1976年、自閉症児協会のヨーク会議で体験談を話したが、敵意と誤解に満ちたやり方で拒絶されてしまった〉由、むべなるかな、彼女の話を聞いたのは、おそらく「専門家」と「両親」たち、「自分たちには治せなかった」という悔恨と忸怩たる思いが、「敵意」や「誤解」に転じて「渦巻いた」としてもおかしくない。すべてが、非合理的思考(感情論)の「なせる業」であることを肝銘すべきではないだろうか。(2013.12.10)