梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・17・《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》

《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》
◎要約
・われわれは、自閉症の「すべてを知っている」わけではない。以下に述べることは、暫定的な「試案」であり、将来大いに改善される余地がある。
・この指導法は、害よりは益のほうが多いと感じるし、両親が「完全な諦めの態度」に陥ることは防げるだろう。
・この章の内容は、形よく整理されていないし、くり返しもある。
・この章の目的(助言の本質)は、両親・保育者に「希望」と「自信」をもっていただくことである。
・しかし、すみやかに回復していくことはめったにないし、自閉症児の親の仕事はたいへんなことなのである。
・具体的な助言の前に、自閉症児の親にとって最も望まれる態度の三つの面について述べる。
【早期発見】
・両親に対する最も一般的な助言は、「自分の子どもを一心に(不安をもたずに)観察してください。そして、対人的無関心の初期かもしれないような信号を見逃さないように気をつけてください」ということである。多くの事例においてそのような信号は、生まれた直後から認められている。(おとなしすぎて要求が乏しく「良い子」、働きかけても反応しない、抱き上げようとすると抵抗する、ひどく「泣く」など)
・赤ちゃんを観察するためのいちばん自然な機会は、「授乳」とその直後である。母乳栄養は、母子の相互反応を自動的にひき起こす。人工栄養の場合は、哺乳びんが、自分の体から出てきているような位置にもっていくことが大切である。
・最初はまったく正常だったが、その後(30か月になるまでに)自閉症になっていくこともある。(「喃語」や「クーイング」が出てこない、首を振る、体をゆする、ひんぱんすぎるまばたきなどの常同行動、「うつろな」目つき、母親を通り越してその向こうを見るような「目つき」、抱いてもらいたくて腕を上げる動作をしない、母親を避ける、などは対人行動の荒廃を示すもので、注目しなければならない。自閉的傾向の始まりを示す対人的なひきこもりへの「変化」である可能性がある。)
・初期の警戒信号は、かすかに、微妙に「忍び寄ってくる」ので母親がよほどよく見ていないと(あまり忙しすぎたり、他のことを心配していたり、他のことで頭がいっぱいになっていたりすると)見逃すおそれがある。
・また、部外者(近所の人、親類、訪問看護婦など)の反応もよく観察していただきたい。(母親自身が気がついていないことを見ているかもしれない)
・母親との間に暖かい愛情深い相互的絆を形成することが、われわれの種(ヒト)においては、その後の生活における正常な対人的行動の発達のための自然で最上の出発点である。・父親にはその役割はできない。男性と女性が遺伝的に異なることは単純な生物学的事実である。父親の役割は、出発点では「補助的」であり、子どもとの「直接的」相互作用はのちになってからであり、母子のやりとりとは異なった種類のものである。父親が母乳栄養で育てることは不可能である。
・父子家族の場合は、やむをえず父親が母親の役割を担うか、安定した母親代理を見つけるしかない。
・「経験のある母親」からも、多くのことが学べる。育児書に頼る母親たちは、よい親になるのではなく、説にこだわるようになる危険がある。
・回復への試みはどの段階でもやる価値がある。絶望する必要はない。
【親の情緒面の適応】
・多くの専門家が述べている「自閉症は治らない。予後は悪い」という考えを盲目的に信じてはいけない。
・「自閉症発生要因」のいくつかが該当すれば、母親の「罪の感情」が軽減されるかもしれない。
・もし、何も見つからない時には、おそらくその子はたいへん感受性の強い赤ちゃんで、たいへん価値のある特徴をもっているかもしれない。子どもが興味をもっていないもののことを考えるよりも、興味をもっていることは何か、特殊な才能をもっていないかどうかを見つけるように努めた方が有益である。その資質はすべて、対人的なつながりをつける「橋渡し」として使えるからである。
・母親の「罪の感情」に対する最も良い方法は「だからどうした。われわれはベストを尽くしてきた。誤りを犯さない親などどこにも存在しない。できたことを悔やんでもしかたない。《今》問題なのは、どうしたらこの子を治せるかということだ」と思うことである。・「私がこの障害のある子どもをつくり出した。私がおよぼした害がどんなものであれ、それを元通りにすることは私の義務である」と自分自身に言い聞かせた母親もいる。(しかし、このような人はまれで、かなわないからといって劣等感をもつ必要はない)
・「このような子どもは《神の業》であり、背負わなければならぬ十字架であり、それについてどうにかしようとすることはできないし、する必要もないし、むしろしてはならない」というような考えを受け入れてしまうのは、無益かつ「問題からの逃避」である。
・子どもを教育不能と宣言することは、子どもに恐ろしい終身刑を言い渡すことになり、生涯にわたる悲惨を宣告することである。
・「回復させようと試みても無駄だということがまだ完全に疑いなく立証されているわけではないのだから、少なくともやってみなくてはわからない」という態度をもつことが大切である。
・接触を確立しようとする試みが報いられて、たとえわずかでもよい方への変化が起こりはじめた場合、その消極的・絶望的な気持ちがたちどころにその反対の方向にかわっていく、そのことを忘れないでいただきたい。
・早期発見とすみやかな回復は、決して遠い理想ではなく、いつも同じ幸せな結果をもたらしうる。
・あともどりは、全体的な進歩の一時的な中断にすぎない。あともどりでがっかりしてしまわないことが肝心である。
・「最後にはすべてうまくいくのではないか」というような受身的な信念をもつことではなく、「うまくいかせてみせる」という楽観的な決意をもつことが大切である。
・起こった進歩のことは忘れて、子どもがまだできないたくさんのことをすぐ心配し始めることは禁物である。
・父親は、母親の仕事を全面的に支持し、母親の絶望をのりこえるために、(小さな幸運に感謝する心をもって助けなければならない。
・部外者は、多くの親が子の問題に対して敏感になっているという事実を忘れてはならない。また、「脱線し」「病んで」「おかしくなって」いるのは母子二者の間柄であり、子どもー両親の間柄であり、家族全体だということを片時も忘れてはならない。
【医師その他の専門職への接し方】
・医師の仕事のやり方をよく調べるのが、最善の方法である。(本当に関心と興味を示しているか、子どもをよく観察しているか、関係のある事実についての情報を尋ね、こちらの話に耳を傾けるか、子どもの傷つきやすさ意識しているか、薬を処方したり、臨床検査を勧めたりするか、自閉症について標準的な見解以外の考え方があることに気づいているか等(
・医師から医師へ、診療所から診療所へと子どもを連れ回すことは避けた方がいい。(子どもの不安が増すばかりで、何もいいことはない)
・医師がしようとしていることに確信がもてない場合は、拒否する以外ない。しかし、決断するのは両親である。
・自閉症児の教育可能性を信じないで。「反復練習」によって教えようとするような教師は、避けるべきである。
・よい親や治療士、教師のやり方から進んで学びとろうという態度を養うことが大切である。
・食物と自閉症とのつながりについてはまだ調査が緒についたばかりであるが、自閉症の子ども(およびすべての子ども)の親は栄養に関する信用できる文献を読み。子どもたちにバランスのとれたビタミンの補給をするようにするのがよいと思う。


《感想》
 以上が、《第9章 指導法の実際・・両親と保育者のために》の前置き部分であり、その内容は、指導法の実際に関する一般論(自閉症児の親に望まれる態度)が、三つの面について述べられていた。その1は「早期発見」の大切さ、2は「母親の情緒的適応」、3は「医師その他専門職への接し方」であったが、中でも、自閉症児をもった母親の「情緒的安定」をどのように図るか、という問題は切実であり、たいへん興味深かった。もともと、子どもの自閉的状態を見落とし、その状態を「永続」「進行」「変形化」させてしまう(自閉症児に育てあげてしまう)ような母親が、はたして自分自身の「誤り」に気づくことができるだろうか。さらにまた、それを「認める」ことができるだろうか。治療の困難さは、子どもよりも母親の方に(多く)あるように感じられた。著者自身も指摘してい通り、現代では〈この「親密関係づくり」の仕事を主として母親に割り当てるのは不公平だと考える人々(男女の完全平等を望む過激な女権拡張論者)〉がほとんどではないだろうか。「子育ては母親の役割」とでも言おうものなら、たちまち「時代遅れ」(前近代)の封建主義と批判されてしまうのが、日本の現状ではないだろうか。また、母親自身が「育児不安」をもっており「神の業には従わなければならない、何もする必要はないし、してはならない」という逃げ道を選ぶケースも少なくないだろう。そんな時、「だからどうした。われわれはベストを尽くしてきた。決して誤りを犯さない理想的な親などどこにも存在しない。できたことを悔やんでもしかたない。《今》問題なのは、どうしたらこの子を治せるかということだ」という思いや、「最後にはうまくいくのではないか」というような受け身的な信念ではなく「うまくやってみせる」という楽観的な決意をもつことが必要であるという著者の助言に、私は心底から納得・感動した次第である。(2013.12.3)