梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

自閉症の《本質》

 もし生まれたばかりの乳児を母親から引き離し(隔離し)、何の刺激も与えずに「栄養補給」だけで育てたらどのような結果になるだろうか。そのような実験は許されるはずもないが、アカゲザルなどを対象にした「隔離実験」では、子ザルに様々な異常行動が発生することが報告されている。(「子ザルの異常な社会的行動」(スティーヴンJ.スウオミ、ハリーF.ハーロウ)『障害乳幼児の発達研究』(J.ヘルムート編・黎明書房・昭和50年)所収)文献にたよらなくても、動物園の檻に隔離されたライオン、チータなどが端から端へと絶えず往復運動を繰り返している光景は、誰もが目にしているだろう。環境が動物の行動に影響を及ぼす一例である。
 人間もまた動物であるかぎり、その行動が環境に影響されるだろうことは、想像に難くない。「自閉症」という問題は、子ども自身の生得的な疾患(脳の機能的障害)によって発生する、という考え方が通説になっているが、その原因論とは全くかかわりなく、生育環境の影響を受けることもまた確かなのである。例えば、聴覚障害のある乳幼児は、音の環境から「隔離状態」に置かれるため、適切な聴覚補償が施されないと「自閉症」という問題が発生することがある。「自閉症」の幼児は耳が聞こえないように見えるため、「聴覚障害」の幼児と鑑別しにくい。同様なことは、視覚障害、知的障害、肢体不自由などの幼児にも当てはまる。いずれも、生育環境の中で周囲とのコミュニケーションがスムーズに成立しにくいため、結果として「隔離状態」に置かれ「自閉的傾向」が発生すると考えられる。「自閉症」の幼児に見られる「ウロウロ行動」は、檻に隔離された動物たちの行動に酷似している。それが「自閉症」の《本質》である。
 種がなければ芽は出ない。しかし、種があっても芽が出るとは限らない。発芽のためには条件が必要だ。条件が十分に整わなければ芽はでない。それが生物界の真理である。したがって、「自閉症」という問題の《種》を、子ども自身の生得的な資質の中に求めるか、それとも子どもを取り巻く環境の中に求めるかに、こだわることはあまり有益ではない。どちらに《種》があったとしても、発芽の条件が整わなければ、「自閉症」という問題は発生しないからである。つまり、「発芽の条件」とは何かを見極め、それを払拭すればよいのである。
 「自閉症」という問題の根幹は、対人関係の形成不全である。それを発生させる条件とは、すでに述べたように、環境からの「隔離」であることは明らかである。子どもの方から自発的(自動的)に環境を回避(環境から隔離)しようとし、対人関係の形成不全に陥る場合がある。「自閉症」がオーティズムと呼ばれる所以である。また、親の方から意図的に、あるいは無自覚的に、環境からの「隔離」を図り、対人関係の形成を妨げる場合もある。前者の端的な例は「感覚障害」(感覚過敏・感覚鈍麻)であり、視覚障害、聴覚障害、運動機能障害も(当然)含まれる。後者は、親の過度な不安、期待、干渉傾向に因り、無自覚的に対人関係(親子関係)の形成が妨げられる。意図的な場合には、拒否(ネグレクト)、虐待に因り「人格障害」を発生することもある。
 いずれの場合でも、まず、対人関係の形成を図ることが肝要であり、そのためには環境からの「隔離」状態から脱出する必要がある。
 「自閉症」という問題を改善するためには、環境(親)の側が、①相手(子ども)を「自閉症」と決めつけないこと(問題の要因を相手に求めないこと、自閉症だからしょうがないと諦めないこと)、②「フツー」の人間として向き合うこと(成長、変容を信じること)、③相手に不安・緊張を与えない(見つめない、働きかけない、話しかけない、指示しない、要求しない、問い詰めない、叱責しない)こと、④相手の言動を模倣しながら、「やりとり」(表情・声・動作)を頻繁に試みること、などに留意しながら、相手からの「接近」「働きかけ」を《待つ》ことが有効である。
 もし相手が「接近」「働きかけ」をしてきたら《無条件に》応じなければならない。そのことが《うれしい》《楽しい》という、こちらの気持ちを表情、声、動作で伝えることが大切である。要するに「楽しいひととき」を過ごす喜びを分かち合うのである。楽しければよい、おもしろければよい、「もっと一緒に過ごしたい」という相互の気持ちが、環境からの「隔離」状態を脱出させるのである。


 そんなはずはない、という反論があるかもしれない。しかし、そのためには「環境が、動物や人間の行動に影響することは全くない」ことを実証しなければならない。「自閉症」に関する先験的な知識ではなく、事実にもとづいた実践的な立場からの反論を期待する。
(2016.6.14)