梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・34

■自発的身振りの発達
《身振りと“内的言語感覚”》
【要約】
 レベス(Revesz,1956)によれば、音声が“内的言語感覚”の影響を受けるようになるとき、音声言語行動が形成される。これと同様に、身振りもこの要因の関与によって、象徴化を開始するという。それは身振りの形ではあるが、一種の“言語的行動”である。レベスは、音声と身振りとが共通の“言語的”基礎に立って発達すると考え、音声と身振りとの間につぎのような発達的等価性ないし対応を認めている。
⑴ 表出的音声 対 反射的身体運動
⑵ 非意図的呼びかけ 対 身振り的接触運動
⑶ 意図的呼びかけ 対 手や表情による命令的および叙述的な表示
⑷ 語 対 象徴的身振り
 ⑷の発達水準では、“内的言語感覚”が音声にも身振りにも共通に働いているとレベスは考える。“内的言語感覚”という概念は十分に定義されてはいないが、“言語”の習得を前提とした機能とは考えられず、また人間に生得的に備わり成長の過程で自然に現れてくるものとも考えられない。
 人間社会からまったく隔絶された幼児に⑷はおろか、⑶あるいは⑵の水準の身振りさえ期待することができないのではあるまいか。彼らには“内的言語感覚”を育て上げるのに必要な人間文化からの影響がまったく欠けているからである。人間文化のなかにある幼児であれば、言語に基礎づけられたもろもろの文化の影響を受けていることは疑いのないところであり、これが彼らに“内的言語感覚”を形成させ、かなり高度の象徴的身振りの理解と自発的使用を可能にしていると思われる。身振りは音声言語行動に対して補償的に発達すると考えられるが、これは両種の行動に共通に働く“内的言語感覚”の存在を暗示するものである。
《身振りの象徴化の理論》
 身振りの象徴性が強まるとともに、身振りそのものの形が表示される事象から解放されてくる。事象の客観的特性や、それに対してなされる実用的行為からますます離れ、それ自身で独立した性質を帯びてくる。このような発達的特徴を、ウェルナーとカプランは、“空間的ー時間的疎遠化”という用語で表現している(Werner and Kaplan,1963)。空間的過疎化とは表示されるものと表示するものとの類似性の減退を意味し、時間的過疎化とは、表示される事象の非現前性の増大を意味する。このような二重の疎遠化によって、表示活動の自立性が達成されるというのである。


【感想】
 ここでは、音声言語行動が“内的言語感覚”の影響によって形成され、身振りもまた“内的言語感覚”によって象徴化を開始するという、レペスの所論が紹介されている。また、音声と身振りとの間には、発達的等価性があり、表出的音声(喚声)には反射的身体運動運動、非意図的呼びかけ(喃語?)には身振り的接触運動、意図的呼びかけには手や表情による命令的・叙述的表示、語には象徴的身振りが「対応」するということである。
 “内的言語感覚”とは何かについては「十分明白に定義されていない」が、幼児が人間文化の中に身を置くことによって形成されるものであり、それが象徴的身振りの理解と自発的使用を可能にしている。
 自閉症児の問題は「人間文化の中に身を置いている」という事実があるにもかかわらず、レペスのいう「⑴表出的音声 対 反射的身体運動」もしくは「⑵非意図的呼びかけ 対身振り的接触運動」の段階にとどまっているように思われるが、それはなぜか。いいかえれば、自閉症児の“内的言語感覚”はどこまで育っているのか、という問題に私は注目する。以下を読み進めることで、その解答が得られることを期待したい。
(2018.5.15)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・33

■絵画的身振り
《絵画的身振りの意味》
【要約】
 他者の身体運動を自己の身体運動で模倣しようとする傾向は0歳10ヶ月~1歳0ヶ月ごろからみられる。子どもの絵画的身振りはこのような人間行為の模写にはじまるようである。この場合、模写の媒体となる身体部位は、はじめのうちは一定せず、相互交換的にある範囲のものが用いられる。たとえば、足の運動を手や身体全体の運動で模写するといったぐあいである。これは子どもがその運動現象の力動的な特質を把握し、これを自己の身体運動で再現することのなってきたことを意味するという解釈(Piaget,1945;Werner and
Kplan,1963)によって、とくに重要性を帯びてくる。まったく異なる身体部位による運動の間での類似性の発見は、感覚運動期の最終段階(2歳0ヶ月前後)においてであるといわれている。
 絵画的身振りが役割学習の初期の発現であるという見解もある(Church,1961)。社会的地位には、その地位を占める個人の態度・行動がどのようにあるべきかについて、社会一般の人々が共通に期待する一定の型がある。これが“役割”である。役割の最も原初的な学習はきわめて幼いときに生じるのかもしれない。そう考えるとき、子どもの身振りにこのことを暗示するものが認められよう。たとえば、いばって歩く人が肩をいからせ、あごをつきだしている形がこれである。
《絵画的身振りの象徴性》
 柱時計の振り子を見て身体を左右にゆすり、飛行機や鳥の飛ぶのを見て両手を左右に伸ばして走る、といった身振りは子どもによっては非常にひんぱんに生じる。その上、象徴性が高められるとき、さらにそのバラエティーは豊かとなり、独創性が加えられる。“大きなオレンジ”を頬をふくらますことによって表し、“火花”を瞬きで、“波”を手をうねらせる動作で、“ボートが波に揺れている様子”を両肩をゆすることで、それぞれを表すなどがこれである。
《絵画的身振りの模倣性と独創性》
 絵画的身振りは自然の個人的あるいは独創的な起源をもつものなのか、成人(とくに育児者)の行為の模倣を通じて形成されるものなのか、それとも、個々の身振りによってその成因に創造的なものと模倣的なものとがあるのか。 
 バロン(Barron,1940)は、身振りを“自然的身振り”“記述的身振り”“定型的身振り”の3種類に分けている。彼によると、自然的身振りの特徴は模倣によらないことと、現前する事象の表示だけにそれが用いられることである。手を伸ばすとか指示がこれである。記述的身振りは模倣の要因もふくまれているが、子ども自身の“創意”も加わっていて、非現前事象を表すことができる。パントマイムがこの典型的な例である。定型的身振りは純粋に他者からの模倣を通じて形成され、記号性が強い。“家屋”や“家庭”を表すのに、尖った屋根を両手で作る角度で表すのがこれである。
 しかし、身振りをこのように、それぞれの発生過程からきりはなして分類するだけでは不十分である。レオポルド(Leopold,1949)は、追跡的観察資料を分析することによって、身振りの独創性ー模倣性の真の区分が可能であることを示した。その例をあげると、1歳5ヶ月の頬たたき(“おいしい”)や、両手掌を上向きに揃えて親指だけを開く行為(“終わり”)は、模倣により形成され、1歳6ヶ月に旅行の話を聞かせたときに遠くを見る身振り、雷鳴を聞いて手を振る身振りは、独創的なものであった。こうしたことはバロンの分類によっては知ることができない。
 マン(Munn,1955)はつぎのような見解を述べている。身振りの最初の発現が自然発生的であったとしても、それは遅かれ早かれ育児者からの干渉を免れることはできず、大なり小なりの変形を余儀なくされよう。また、逆に、子どもの模倣的身振りにも独創的な面がまったくないことはない。子どもの身振りは、その一つ一つがまったく独創的でもまったく模倣的でもありえない。
 模倣的な身振りの型に対しては成人は干渉を加えず、独創的な型に対する干渉が相対的に強いと考えられるから、全体としては、身振りの独創性は次第に失われていく傾向があるというべきだであろう。独創的身振りは、当初に限って独創的でありうるが、その後漸次、慣用的なものに変化することを強いられるであろう。これは身振りが対人的相互伝達の手段に供せられるかぎり、まったく避けがたいことなのである。


【感想】 
ここでは、絵画的身振りの意義、象徴性、模倣性と独創性について述べられている。絵画的身振りは、足の運動を手や身体全体の運動で模写するといった「感覚運動期の最終段階」に達したことを意味する。また絵画的身振りは役割(社会一般の人々が期待する、社会的地位にふさわいい態度・行動の型の)学習の初期の発現であるという見解もある。絵画的身振りの特徴は「象徴性」だが、それは模倣によって獲得されるものか、独創によるものかについては、双方がふくまれていて判然としない、ということである。
 バロンは、指示(指さし)を自然的身振りに分類し、模倣に因らないとしている。生後8ヶ月以降の子どもは一様に「指さし」をしているが、育児者が「指さし」をしなくても、自然にそのような状態になるのだろうか。また、「バイバイ」という手を振る動作は、模倣によると思われるが、自閉症児の場合、手の甲を相手の向けて行う「逆バイバイ」が目立つことも指摘されている。その要因は何だろうか。まだ「感覚運動期の最終段階」に達していないからだと考えるべきだろうか。私の謎は深まるばかりである。以後を読み進めることで、その謎が解ければ幸いである。(2018.5.7)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・32

■表情
【要約】
 表情は本来、内的・情動的状態の自然的な表出であり徴候であるが、音声言語行動の未発達な時期には、外的事象の表示手段としてもある程度利用される。聾幼児では、音声的手段をほとんどもつことができないために、表情を表示の手段として用いる傾向が強く、急速に発達する。一般に、聴児が音調によって与える影響の多くが、聾児では表情で伝えられるが、その上に、外的表示にも使われる。聴児は音声言語行動によって、音声型で表示を、音調で感情を伝える。音声活動がこのように表示性と感情性の両面を同時に生産しうることが、音声の長所の一つである。
 聾幼児は、しかめ面で不快を伝えるが、のちには不快なものすべてにこの表情が拡張使用され、このように表情が“概念的”な地位を占めるようになる。一方、聴児では、このような表情の利用の分化が進む以前に言語的伝達が進んでくるので、表情による伝達手段の進歩は十分みられない。しかし、未熟な談話をする時期では、表情は少なからず伝達内容の細部を補っているように思われる。表情は語の代わりというよりも、“意味の強調”の役割を果たす(Leopold,1949)といわれるが、聴児でも、まだ文の習得が十分ではない段階では、表情は表示手段として不可欠な場合が生じてくる。たとえば、ボク ニーチャン
タタイタ といったときの幼児の表情がにこやかで得意な様子のときには、ボクがたたいたのであり、表情が哀訴的で不満そうで暗いならば、ボクはたたかれたのである。
 多くの場合、表情には身体の全体的な特徴ある運動ないし姿勢が伴う。これは一瞬の“しぐさ”あるいは“身のこなし”といってよいもので、幼い子どもでは生理的ないし自然的な基礎をもつものが多く、特定の文化の域を超えて、人間共通の型となっているものがある。たとえば、拒否を示す首の横振りや、肯定を示す首のたて振りがこれである(
Spitz,1957)。しかし、このような人間共通の型がなぜできあがるかについては明かではない。


【感想】
 ここでは、表情が外的事象の表示手段として利用されることについて述べられている。
特に、聴覚障害のある幼児はその傾向が顕著であり、「表情が“概念的”な地位をしめるようになる」ということである。なるほど、手話通訳者の表情は、一見不自然(大げさ)だが、それは通訳者自身の感情とは無関係であり、外的事象を表示するための「概念的」な手段であった、ということがよくわかった。
 自閉症児の場合、乳幼児期において「音が聞こえないかのようにふるまう」ことが指摘されている。そのため、この時期における「鑑別診断」は難しい。しかし、「表情」を聴覚障害児のように「表示手段」として利用することは少ないように思われる。総じて、自閉症児の表情は乏しい。特に、初めての場所、対人場面での「表情」は固く、また「痛い」「驚いた」時にも、泣き出すことは少ないのではないだろうか。
 また著者は、音声活動は「表示性と感情性の両面を同時に生産しうる」長所をもっていると述べているが、感情性の源は「泣き声」と考えてよいか、自閉症児の音声活動は表示性の面に偏っていると考えてよいか、以下を読み進めることで明らかになればと思う。
(2018.5.6)