梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「東京大衆歌謡楽団」の《魅力》

 ユーチューブで「東京大衆歌謡楽団」の演奏風景を観た。場所は東京・浅草神社の境内、黒山の人だかり(聴衆)の真ん中とおぼしきところで、7人の男性が演奏している。そのうち、「東京大衆歌謡楽団」のメンバーは4人、他の3人は「浅草ブルースカイ・ハモニカバンド」のメンバーで、4人の演奏を応援しているらしい。
 どのメンバーも一人ひとりが「誠実に」自分のパートを務めており、皆、輝いている。「東京大衆歌謡楽団」の4人は壮年の兄弟で、○太郎(昭和58年生まれ?)が歌唱、○次郎(昭和60年生まれ)がアコーディオン、○三郎(昭和62年生まれ)がベース、○四郎(平成元年生まれ?)がバンジョーを担当している。応援の3人は、いずれも昭和中期に生まれた初老の風情で、ハーモニカ、ギター、ドラムを担当する。
 「東京大衆歌謡楽団」のキャッチフレーズは《昭和を令和に歌い継ぐ》ということで、昭和末期に生まれた 4兄弟が、前世代から受け継いだ「昭和歌謡」の真髄を、淡々と(あるときは粛々と)披露する。歌唱を担当する○太郎は、ロイド眼鏡に燕尾服といった昭和のモボスタイルで、礼儀正しく、歌声(クセのない美声)にも「昭和のぬくもり」が感じられて厭きない。レパートリーは広く、東海林太郎、藤山一郎はもとより、松平晃、霧島昇、ディック・ミネ、楠木繁夫、小畑実、田端義夫、岡晴夫、近江俊郎、津村謙、春日八郎・・・などなど、時には神楽坂はん子まで、「朗々と」歌い通すのだ。彼らの演奏を聴いていると、自然に体が揺れ出し、手拍子を打ちたくなる。その証拠に、黒山の聴衆のほとんどが、体でリズムをとりながら手拍子を打っている。時には「間の手」も打ち、「声」も掛ける。あの「大衆演劇」と同様に、大きな元気をもらうことができるのである。
 ユーチューブでは、彼らの演奏を聴いている人々の姿も映っており、そうした聴衆も輝いている。まさに、演奏者と聴衆が「一つ」になって、《昭和を令和に歌い継》いでいる風景だ。中でも、幼児の手を引いた若い両親が目を引く。幼児もまた両手を叩いているのだから、着実に昭和の歌声は令和の世代に引き継がれていくだろうと、(私は)確信する。
 「東京大衆歌謡楽団」の演奏にはクセがない。だから30分に10曲のペースでも、聴いていて疲れない。むしろ、聴けば聴くほど力が沸いてくる感じだ。演奏にはクセがないが、《クセになる》魅力なのである。疑いあらば、ユーチューブでご御照覧あれ!昭和世代の人ならば、間違いなくハマりますぞ・・・。
(2021.3.31)

今年の桜

 今年の桜は、平成という「平和」な時代を愛おしむかのように、なぜか散り急がない。いつまでも平和であってほしい。そうした願いが桜にもあるのだろうか。いや、いや、そうではなさそうだ。来年は目にすることができないだろう私のために、できるだけ永くその艶姿を見せてくれているのではないか。そんなことを思いながら、懲りずに、いつもながらの駄句を詠む。
■    冷雨しとしと満開の花散れず
■ 病室の窓に名残の花吹雪
■ これでもう見納めだろう花筏
■ 満開の桜に語る「暇乞い」 
■ 余命知り満開の花まだ散らず
■ 散り厭う花の心は読み取れず
オ・ソ・マ・ツ!
(2019.4.10)

ローマ教皇の《真実》

 ローマ教皇・フランシスコは、来日後、長崎・広島で演説を重ねたが、そのポイントは以下の通りである。


《長崎》・核なき世界実現は可能で必要不可欠 ・核兵器を含む大量破壊兵器の保有を非難 ・長崎は核攻撃が破滅的な結末をもたらすことの証人である町だ ・核兵器禁止条約を含む国際法の規則にのっとり迅速に行動 ・武器の製造や維持、改良はテロ行為だ ・兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険がある
《広島》・真の平和は非武装の平和以外あり得ない ・核兵器を含む大量破壊兵器の保有や核抑止を否定 ・被爆地訪問は自らの義務 ・戦争のための原子力利用は犯罪以外の何ものでもなく倫理に反する ・最新鋭の兵器を製造したり、核の脅威を使って他国を威嚇したりしながらどうして平和について話せるのか ・「戦争はもういらない」と叫ぶよう呼び掛け (「東京新聞」11月25日朝刊1面)


 その後、首相官邸で開かれた懇談会で演説し「広島と長崎に投下された原爆の破壊が二度と繰り返されないように必要なあらゆる仲介を推し進めてください」と核廃絶に向けた取り組みを求めたそうである。(「東京新聞」11月26日朝刊2面) 
 安倍首相は教皇に先立ち、「唯一の戦争被爆国として『核兵器のない世界』の実現に向け、国際社会を主導していく使命を持つ国だ」と表明。「これからも核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努めてやまない」と語ったそうである。(同))
 また、菅官房長官は記者会見で「核抑止力を含めた米国の抑止力を維持、強化していくことは、わが国の防衛にとって現実的で適切な考え方だ」と述べたそうである。(同)


 ローマ教皇が最も訴えたかったことは、いうまでもなく「もう戦争はいらないと声を合わせて叫ぼう」であり「核なき世界の実現は可能であり、不可欠だ」という考え方である。それに対して首相は、《日本は「核なき世界の実現」に向けて国際社会を主導していく使命をもつ国だ》などと解説するだけで、(教皇のように)「(被爆地訪問は)自らの義務だ」などとは(己の責務については)明言しない。誰が(米国を中心とした)国際社会を《主導》するというのか。これから首相がするのは「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努める」ことだそうだが、その《橋渡し》にどのような意味があるのか、またどのような橋渡しをするのか、わからない。教皇が求めたのは「原爆の破壊が二度と繰り返されないように必要なあらゆる仲介」である。核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努めれば、原爆の破壊が二度と繰り返されなくなるのだろうか。その根拠が知りたい。
 官房長官に至っては、真っ向から教皇の演説に「異議を唱えている」ことが明らかだ。教皇が、核抑止力では平和を実現できないと述べているのに対して、核抑止力を維持・強化していくことこそが、わが国の防衛にとって現実的で適切だ、と反論している。小賢しい論理のすりかえは、平和と防衛を《意図的に》混同させている点である。平和→防衛という曖昧なイメージを漂わせながら、いつのまにか、防衛イコール平和という価値観にすり替える。官房長官が守ろうとしているのは、文字通り(戦争を生み出す)「防衛産業」であり、そのためには、(教皇の訴える)「核なき平和」などという(倫理的)理念は無用の長物、まさに《非現実的》であり《不適切》なのである。
 図らずも、ローマ教皇の来日により、首相の「的外れ」と官房長官の「好戦主義」が露呈されたわけだが、さすがはローマ・カトリック教会の頂点に立つ人物、私たちに、それとなく「真実とは何か」を授けてくれたような気がする。
(2019.11.26)