梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「有りがたうさん」(監督・清水宏・松竹・1936年)

 タイトルの「有りがたうさん」とは、ある男のニックネームである。彼は三島~下田間を往復する乗合バスの運転手、まだ二十代の二枚目(上原謙)、天城・下田街道を歩く人々を(時にはニワトリの群れにまでも)追い抜くたびに、「(道を譲ってくれて)ありがとう!」と声をかけて往く。走行距離は二十里、二つの峠を越さなければならない。
 その日も彼は、道路工事の人、馬車を引く人、木枝や籠を背負った農夫、農婦たちに「ありがとう」と声をかけながら下田に着いた。終点の売店でしばし休憩のあと、午後3時には三島までの復路を辿るのである。乗合バスといっても乗客の定員は10人程か、その中には東京に身売りする娘(築地まゆみ)と駅まで見送る母親(二葉かほる)、歓楽街を流れゆく酌婦・黒襟の女(桑野通子)、高慢ちきな髭の紳士(石山隆嗣)、行商人(仲英之助)、村の老人(金井光義)らが混じっていた。時代は不況のまっただ中、走り出した車中で、老人が娘、母親に話しかける。「娘さんはいくつだね」「17ですよ。昔は嫁入り盛りだったのに」「当節、娘さんの笑う顔を見たことがないよ。でも娘さんで幸せだよ。男だったら働き口がなくてルンペンになるほかはない」などというやりとりをするうちに、山道を歩いてくる大家族とすれ違った。有りがとうさんが言う。「あの人達は失業して村に帰ってきたんですよ。このごろは毎日ですからね・・・」。黒襟の女が応えて「それでも帰る家があるだけ幸せだよ。私なんか方々歩いているうちに帰る家がわかんなくなったわ」。やがて、1台のオープンカーが警笛を鳴らしながら追いついてきた。無言で追い抜いて行くその車を見やりながら、黒襟の女は「チクショー、ありがとうぐらい言えばいいのに!」と悔しがる。しかし、直後に、オープンカーンがエンジントラブルで停車するのを見て、さわやかに「ありがとう!」と呼びかける場面は小気味よかった。まもなくバスも停留所へ、さきほどの老人が降りていく。「娘さん、東京にはキツネやタヌキがたくさんいるから気をつけるんだよ」。老人の席が空いた。髭の紳士が娘に近づこうとして移動する。すかさず黒襟の女、「自動車の中にもタヌキが居るよ。髭を生やしたタヌキが!」・・・・といった人間模様が、戦前(1930年代)の日本人の姿を見事に浮き彫りしているようで、たいそう面白かった。
 この映画の監督・清水宏は〈実写的精神を重んじ「役者なんかは物を言う小道具」という言葉を残している〉(ウィキペディア百科事典)そうだが、「有りがたうさん」という作品には寸分の隙もない。まさに物を言う小道具、役者一人一人のセリフは「ゆっくりと噛みしめるように」流れ、登場人物に主役、脇役、端役の差がないのである。筋書きといった筋書きは見当たらず、街道を往く乗合バスの運転手を中心に、彼と巡り合う様々な人々との「対話」だけでドラマが展開する。背景はは港、温泉場、渓谷、隧道と移りゆく中で、人々の生き様、心象風景がみごとに映し出されていると、私は思った。
 乗合バスは以後、温泉場を渡り歩く旅芸人(長尾寛、末松孝行、京谷智恵子、水戸光子)双子の出産に駆けつける医者(谷麗光)、学校帰りの小学生(飯島善太郎、藤松正太郎、葉山正雄)東京の流行歌を買ってきてくれと頼む村娘(小牧和子)、行方不明になった息子を探して彷徨う男(如月輝夫?)らと出会いながら進んでいくが、道中半ばで車中の娘は泣き崩れる。その姿に気を取られた有りがとうさんは運転を誤り崖から転落寸前、危うく難をのがれたが「とんだ軽業をやってしまいました」と平然としている。その姿が何とも頼もしかった。再び走り出し一同が居眠りを始めると、娘が近づいて来て「有りがとうさんは今度自分で開業するんだってねえ」「ああ、セコハンのシボレーが安く手に入るから」「じゃあ、今度私が帰る時にはその車だわねえ」などと話しかけた。眠っていた黒襟の女が気がついて「運ちゃんに話しかけると危ないよ、崖道だから」。娘はやむなく後部座席に移ったが、髭の紳士「おい君、君。せっかく来たんだから戻らんでもいいじゃないか」。今度は黒襟の女が運ちゃんに話しかける。「タバコ一本、ご馳走してくれない。私があの港町に来たときも、有りがとうさんの車だったわねえ。覚えてる?二十里の山道に退屈していたら、あたしにタバコをくれたっけねえ。旅に出て親切にされるととてもうれしいもんだよ」。今度は髭の紳士が黙っていない。「運ちゃんに話しかけると危ないよ。片っ方は崖だから」。窓の外は切り立った深い渓谷・・・、といったやりとりも実に面白かった。修行僧に出会えば、ハイキングの元祖は日蓮か空海かなどと行商人で論議する。「どうです、旦那?ハイキングとはお経の中の言葉でしょうか」と髭の紳士に問いかければ、「うるさいねえ、クダラン!鉄道省の旅行案内に行って聞いてみたまえ」。やがて、母親が羊羹を一同に振る舞うが、なぜか黒襟の女を無視・・・、女はたまらず「あたしだけはままっこねえ」とすねてみせた。母親が「残り物でよかったら」と差し出せば「おっかさん、言ってみただけよ。あたしは甘党じゃない」と言い、朋輩から餞別のウイスキーを取り出した。一同に「一杯いかが」と勧める。髭の紳士が手を差し出すのをさりげなく振り払い、他の乗客に蓋のコップを差し出す姿が、ひときわ絵になっていた。たちまち車内は宴会ムード、民謡まで飛びだしたが、髭の紳士は仏頂面で「おい、運転手。車内で酒や唄は規則違反ではないのか!」。有りがとうさんはとりあわず、黒襟が髭に「そうひがまないで、一杯どう?」とコップを差し出した。髭はたちまち愛嬌を崩して「それではせっかくの御好意だから頂こうか」。黒襟、まさに注がんとして曰く「ああ、そうそう、車内でお酒や唄は規則違反だったわねえ」。そのしっぺ返しはひときわ鮮やかであった。車外の街道を、荷物を担いだ朝鮮人労働者が歩いている。最後のトンネルの前でバスは一休止した。谷に向かって石を投げながら、有りがとうさんと娘が「対話」する。「あたし、有りがとうさんに手紙書いてもいいかしら」「いいとも、ボクだって手紙ぐらい書けるよ」。その様子を見咎めていた黒襟の女・・・。娘の姿に自分の過去を投影したか、「二人の仲を成就させよう」と思ったか。出発間近、朝鮮人の娘(久原良子)が追いついて来た。「もう工事、終わったのかい」「今度は信州に行くの」「向こうは寒いだろうねえ」「あたし、お願いがあるの。お父さんを置いていくから、お花と水をあげてほしいの」「そうか。お父さんはここで死んだんだったねえ」「あたしたち、道を作るけど、その道を歩いたことはないの。日本の着物を着て歩いてみたい・・・」「この、バスに乗らないか。駅まで送ってあげるよ」「あたし、皆と一緒に歩くの、皆と一緒に」、バスは出発。残された娘の姿がトンネルの入口から小さくなり、消えて行く場面はこの映画のクライマックスであったように思われた。
 走り出したバスは、韮山の婚礼に赴く夫婦(桂木志郎、水上清子)長岡の通夜に赴く老人(縣秀介)を乗せては降ろし、乗せては降ろし、最後に新婚夫婦(小倉繁、河井君枝)を乗せると三島の街にさしかかった。折しも、東京女歌舞伎一座(浪花友子、三上文江、小池政江、爆弾小僧)の「お練り」「口上」の真っ最中、それをやり過ごして、いよいよ終点も間近となった。東京に売られていく娘、母親に「私がいなくなったらおっかさん病気しないといいわねえ」と言って目頭を押さえる。その様子に気を取られている有りがとうさん・・。黒襟の女「またよそ見して軽業をしないでよ」と言いつつ、意を決したかのように、凜として(有りがとうさんの耳もとに)囁いた。「東京にはキツネとタヌキばっかりなんだよ、シボレーのセコハン買ったと思や、あの娘さんは一山いくらの女にならずにすむんだよ。峠を越えていった女はめったに帰っちゃ来ないんだよ。分かったかい?有りがとうさん!」キッとした表情でバックミラーに目をやる有りがとうさん。黒襟の女が呟くモノローグ、「たった二十里の間にもこれだけのことがあるんだもの、広い世の中にはいろんなことがあるだろうねえ」で、終局を迎える。その後の画面には一転、《翌日 天城街道は日本晴れ》という字幕が燦然と輝いていた。翌日、再び下田に向かう車中には件の娘と母親の姿が・・・。有りがとうさんは、セコハンのシボレー代を娘に捧げたのである。「帰ったら昨日の女の人に手紙を出しましょうね」「どこへ行ったか行き先がわからないよ」「私、一度お礼が言いたいわ」「渡り鳥ならまた帰って来るがねえ」「あの人、いい人だったわねえ」そんな会話を交わすうちにも、街道筋には子どもたちが群れ集い「バンザイ!バンザイ!」と小躍りする。かくてこの映画は大団円となった。
 まさに戦前邦画、屈指の名作!「役者は物を言う小道具」に過ぎない、芝居を撮っても映画にはならない、映画を作るのは監督である、画面に映し出される山や川、海、家屋、荷車、馬、ニワトリ等々、「すべて」が物を言うのである、といった清水宏の方法論が結実化した珠玉の名品といえよう。私はこの映画を通して「街道」の意味をしみじみと思い知らされた。昔の人は、ただひたすら、街道を歩き続けた。歩くことが生きることであり、そこに人生の真髄が秘められているのだろう。事実、この街道を往く自動車は一台のオープンカーと湯ヶ野ですれ違った乗合バスに過ぎなかった。バスが出会った、歩いている人々の中にこそ「本当の人生」がある。それを教えてくれたことへの感謝が「ありがとう」という言葉の中に込められていることは間違いない。今は昔、街道を歩く人は見当たらない。同時に、私たちの「人生」もまた失われつつあるようである。(2016.9.16)

映画「簪(かんざし)」(監督・清水宏・松竹・1941年)

 1941年(昭和16年)、山梨の下部温泉で一夏を過ごす人々の物語(原作・井伏鱒二)である。長逗留をしているのは学者・片田江先生(齋藤達雄)、復員兵とおぼしき納村猛(笠智衆)、商家廣安の若旦那夫妻(日守新一、三村秀子)、老人(河原侃二)とその孫・太郎(横山準)に次郎(大塚正義)といった面々である。そこに身延山詣での団体客(蓮華講中)が押し寄せてきた。入館するや1階では按摩の予約で大騒ぎ、18人のうち12人の按摩を確保したなど世話役の話が聞こえる。2階の縁側に居た納村が「なかなか賑やかですな」と言えば、先生「賑やかとはどういうことです。あれはウルサイと言うんです」、老人が「なかなか景気がいいですな」と言えば「ご老人にはあれが景気よく感じられますか。あれはウルサイと言うんです」。すかさず太郎が近づいて「おじいさん、また怒られたの」。騒ぎはいっこうにおさまらない。先生、いらいらして廊下の襖を開ければ、若旦那が「なかなか派手ですね」と言いながら立っていた。「派手とはどういう意味ですか。君にはあれが派手に見えますか。ウルサイ!」。若旦那の奥さんがそれを見て「ホラご覧なさい、また叱られた」。どうやら、皆、顔馴染みの様子、学者先生はことのほか気むずかしい気配が感じられた。先生はたまらず帳場に電話、「実にどうもさっきからウルサイですな。けしからんです。旅には旅の道徳というものがあるんです。注意したまえ。今日はうるさくて勉強できん。按摩にかかって寝るから按摩をよこしたまえ。・・・何!按摩はふさがっておる?一人もおらんのか・・・」。
 蓮華講中の中に、囲い者とおぼしき女・太田恵美(田中絹代)、その朋輩のお菊(川崎弘子)が混じっていた。恵美が按摩されながら「按摩さん、先生ってなあに」と尋ねると「夏の初めから御滞在です。なんでも難しい本を読んでらっしゃる先生ですよ。この間お湯の中で詩吟を唸っていると、先生がそれは君が作った詩かと聞いた訳なんです。いやこれは誰々が作った有名な詩だと答えると、先生は他人が作った詩を得意に詠うなんて、それはむしろ滑稽であると、こういった訳なんです」。恵美笑いながら「おやおや、それでは芸者衆なんかお座敷で何も唄えないわけね。みんな人様の作ったものばかりじゃないの」「それからみんな詩吟は詠わなくなったそうです」「かわいそうなこと」。
 しかし、かわいそうなのは先生の方であった。その夜、按摩は来ずじまい、一睡もできずに朝を迎えることになった。翌日の朝、顔馴染み一同で露天風呂に浸りながら、また先生のぼやきと講釈が始まる。納村は老人の孫たちと風呂の中で遊んでいたが、突然「ア、痛い!」と叫んだ。右足に何かが突き刺さっている。それは女物の簪であった。一同は「大変!」と納村を部屋まで連れて行き、宿の亭主(坂本武)を呼びつける。平謝りの亭主に先生が、何たることかと噛みついたが、納村は冷静に「ほんのかすり傷です。情緒が足の裏に突き刺さったくらいだと思っていますよ」。先生「何?情緒が突き刺さった?君、それは廃退的で卑属的だ!その簪を落とした婦人が美人であることを期待してるんだな」。といったやりとりが何ともおかしく、私の笑いは止まらなかった。期待しているのは、先生の方であったかもしれない。
 やがて、簪の落とし主は恵美であることが判明、恵美は謝罪に訪れるという。一同は「美人であること」を期待して待つうちにいよいよ御対面となった。先生はことのほか満足の様子で、自分の部屋をあけわたし老人や孫と同室する算段、かくて馴染み客の中に恵美も加わることになった次第である。 
 納村の負傷は意外に深く、松葉杖に頼らなければ歩けない。回復までには相当の時間がかかりそうだ。林の中で太郎、次郎に励まされながらリハビリを続けている。そんな様子を見守りながら、恵美も納村に惹かれたか、これまでの愛人生活に終止符を打とうと決意する。
 納村のリハビリは林の中から下部川の一本橋へと移る。滔々と流れる川面に架けられた細い板の上をバランスを欠きながら懸命に渡り始めた。対岸で応援する恵美、太郎、次郎・・・、「おじさん、渡り始めました。10メートル進みました。懸命に歩いております。おじさん頑張れ、頑張れ!」。あと僅かの所で、納村は倒れ込んだが「案外と難航コースでした」などと頬笑んでいる。恵美は「あそこまで私がおぶってあげるわ」。今度は「おばさん。頑張れ、頑張れ!」、二人で川を渡り切ることができたのであった。
 翌日。恵美は川で馴染み客達の洗濯をしながら、迎えに来ていた朋輩のお菊に向かって、今の生活に何の不自由もないが所詮は日陰の花、それよりもお天道様の下で真っ黒になりながら、目的をもってあたりまえの生活をする方が価値があると説いた。「これといってあてがあるわけではないけれど、お天道様が教えてくれるでしょう。あなたもよく考えた方がいいわよ」「お説教しに来たのに、あべこべにお説教されちゃったわ」というお菊の言葉が印象的であった。
 やがて、物語は終局へ・・・、夏の終わりが間もなくやって来る。馴染み客たちは帰京後も再会(常会を開催)しようと約束して、学者先生が宿を去った。廣安夫婦もいなくなり、残された納村、太郎、次郎と恵美、川縁に近い寺社の階段にやって来た。この階段を登り切れば、納村も東京へ帰るという。「頑張れ、頑張れ」という子どもたちの声を聞きながら恵美の心は千々に乱れる。「どうか登ってほしい、でも納村と別れたくない・・・」とうとう、納村は登り切った。「バンザイ、バンザイ」と叫ぶ子どもたちの声を背に、恵美は一人涙ぐむ。「おばさん、どうして泣いているの?」「おじさんが登れたので、嬉しくて泣いているのよ」とその場を繕ったが、淋しさ、切なさの涙であることに変わりはなかった。
 夏休みは終わった。一人残された恵美に納村からの手紙が届いた。「東京へ帰ってから、松葉杖を棄ててステッキを用いています。今夜は例の第一回常会です。東京へお帰りになるのをお待ちしています」。恵美は、納村と出会った林の中、一本橋、寺社の階段を巡りながら、淡い思い出を噛みしめるうちに、この映画は閉幕となった。
 日中戦争の最中、太平洋戦争を控えた物資不足の時代にしては長閑で牧歌的な空気が漂う。子どもたちから「おじさん、おばさん」と呼ばれる中年男女の交情が、あっさりと描かれている佳作である。ここまでは触れなかったが、その仲をとりもった学者先生や廣安夫妻の風情もどこかコミカルでユーモアに溢れている。何かにつけて「うちの(家内)が・・・」と口走り、学者先生に叱られる若旦那、「廃退的イリュージョンがですね」などと先生の言葉を納村に受け売りし、「君の言うことはさっぱりわからんよ」とあしらわれる様子が、色を添えていた。また、若さ漲る笠智衆、田中絹代の溌剌とした姿を拝見できたことも望外の幸せであった。感謝。(2016.9.17)

映画「路上の霊魂」(監督・村田実・1921年)

 ユーチューブで映画「路上の霊魂」(監督・村田実・1921年)を観た。ヴィルヘルム・シュミットボンの『街の子』(森鴎外訳)とマクシム・ゴーリキーの『夜の宿(どん底)』(小山内薫訳)が原作で、ナ、ナ、ナント、日本の演劇界の革新に半生を捧げた小山内薫自身が出演しているとは・・・。ウィキペディア百科事典では〈『路上の霊魂』は同時に進行する出来事をクロスカッティングしたり、回想場面を挿入したりする近代映画の技法をふんだんに取り入れた、日本映画初の芸術大作というべきものだった〉と紹介されている。
 冒頭では「文部省推薦」という文字、タイトルに続いて「吾々は人類全体に対して憐れみの心を持たなくてはならない。例えばキリストは人類全体を憐れみ給うた。そして、吾々にもそうせよと仰せられた。人を憐れむには時がある。その時をはずさないようにせるが好い。マクシム・ゴーリキー」という文章が映し出される。
 登場人物は、山奥で伐材所を営む親方・杉野泰(小山内薫)と息子の浩一郎(東郷是也、のちの鈴木伝明)、浩一郎の妻・耀子(澤村春子)、娘・文子(久松三岐子)、浩一郎の許嫁・光子(伊達竜子)、伐材所の少年・太郎(村田実、彼はこの映画の監督でもある)、
別荘の令嬢(英百合子)、別荘の執事(茂原熊彦、彼はこの映画の脚本を執筆している)、
出獄者・鶴吉(南光明)、亀三(蔦村繁)、別荘番(岡田宗太郎)、八木節の姉(東栄子)
八木節の弟(小松武雄)、クリスマスの客(春野恵美奈)といった面々である。
 浩一郎には許嫁の光子がいたが、ヴァイオリニストになりたい一心で都会に出奔、杉野はやむなく光子をそばにおいて帰りを待っている。しかし浩一郎はすでにピアニストの耀子と結婚し、文子という娘までもうけていた。都会で演奏活動を始めたが、批評家との折り合いが悪く、出世の道は断たれたか・・・。今では、妻子と共に故郷に帰らざるをえない。三人は、ただただ歩き続け、空腹と疲労で行き倒れ寸前であった。そんな折り、たまたま分岐点で行き会ったのは、こちらも放浪の旅を続ける出獄者・鶴吉、亀三の二人、亀三は労咳で衰弱している。一つのパンを半分にし、それをまた等分にして朝食をすませたが、見れば娘の衰弱も甚だしい。二人は初め親子三人から何かを強奪しようとしたのだが、相手は何も持っていない。気の毒にと思い、残りのパンを娘に与えて、右の道を辿り始める。その行き着く先は軽井沢の豪華な別荘であることを知ってか、知らずか・・・。一方、浩一郎と妻子は左の道へ・・・、その先には懐かしいわが家があるのだが・・・。
 山奥の別荘にはおきゃんな令嬢が居た。執事と馬車で散歩に出ても、つねに単独行動、物陰から、探し回る執事の帽子めがけて空気銃を一発発射、執事が帽子を飛ばされ慌てている間に、街中へ繰り出した。そこでは八木節の姉弟が大道芸を披露中、令嬢は拍手喝采して見物していたが、踊りを終えた弟が帽子を袋替わりに近づいても、入れるお金を持っていない。たまたま居合わせた伐材所の少年・太郎が、代わりに銅貨を入れてあげる。令嬢と太郎は顔見知り、お互いに好意を寄せていることが窺われる。やがて、執事が馬車で到着、令嬢を見つけて「お嬢様、こんなところに。さあ、家に帰りましょう」と言うが、アッカンベエをして逃げ回る。その様子は抱腹絶倒の名場面であった。
 やがてもうすぐクリスマス・イヴ、別荘はその準備に余念がない。令嬢は表に八木節の姉弟が通りかかるのを見て、「今晩、来るように」と執事に言いつける。鶴吉、亀三の出獄者も別荘に辿り着いた。邸内に入り込み室内を物色中、食べ物を探しているのだ。そんなところを別荘番に見つかり、お互いを鞭打つように仕置きされたが、亀三が激しく咳き込む様子を見て、別荘番に一瞬「憐れみの情」が湧き上がったのだろう、持っていた銃を投げ出した。その様子を窺っていた令嬢は、二人を許し食べ物を準備するよう、別荘番に言いつける。 
 浩一郎妻子三人も、ようやく杉野の家に辿り着いたが、杉野はまだ山から帰っていない。出迎えたのは許嫁の光子、浩一郎妻子を見て複雑な気持ちを隠せなかったが、御馳走の準備を始める。まもなく杉野も帰宅、十数年ぶりの父子対面となる。「お父さん、私たち親子を温かく迎えて下さい」と、浩一郎は必死に頼んだが、許せる話ではない。杉野は思った。妻子に罪はない。しかし、浩一郎は絶対に許せない。光子が準備した御馳走も与えず「屋外に出て行け」と言い放つ。外は猛吹雪、浩一郎たち三人はやむなく納屋に避難、藁で暖をとるのだが・・・。杉野は不安になった。あの妻子はどうしているだろうか。納屋に居た三人を見つけて逡巡する。浩一郎には幻想が現れ、あげくは父に「決闘を申し込む」始末、光子もたまらずやって来て「お部屋を用意しました」と取りなした。杉野は「オカミさんと子どもは連れて行きなさい」と言ったが、今度は妻の耀子が応じない。「私はあなたと離れない」と言って浩一郎の足元に縋り付く。しかし、浩一郎はヴァイオリンの幻聴に誘われるように納屋を出て行ってしまった。そんな大人同士の葛藤の中で、娘の文子は息絶えていた。その一部始終を、なすすべもなく見届けていた太郎の悲しみ、驚愕とも悔恨ともつかぬ杉野の表情が印象的であった。
 別荘では令嬢を中心にイヴのパーティーが開かれている。出獄者の鶴吉、亀三、八木節の姉弟、杉野家の使用人たちも招かれて、明るく楽しい雰囲気が満ちあふれている。やがてお開き、令嬢のベッドにはサンタクロースもプレゼントに現れた。翌日は、昨夜の猛吹雪が嘘のように晴れわたり、令嬢が屋外に飛び出した。傍には太郎も居る。二人連れだって鶴吉と亀三の「新しい門出」を見送りに出たのだ。しかし、そこで鶴吉と亀三が見たのは、林の中、雪に埋もれている浩一郎の亡骸であった。その場にやって来た令嬢がいう。「もし爺や(別荘番)が二人を憐れんでやらなかったら」(爺やは二人に殺されていたかもしれない。そして二人はまた獄舎につながれる身となったかもしれない)と言い、旅立っていく二人の方に目をやる、太郎もまた「もし旦那(杉野)がこの方を憐れんでおやりになったら」と言い亡骸に目を落とす。
 そんな二人が顔を見合わせ立ち尽くすうちに、この映画は「終」を迎えた。 
 この映画の眼目は、ゴーリキーの言葉にあるとおり「人を憐れむには時がある。その時をはずさないようにするが好い」ということであろう。「時をはずされた」浩一郎妻子三人と、三人の窮状を憐れみ、パンを施した「時をはずさず、はずされなかった」出獄者二人の《運命》が、「同時に進行する出来事をクロスカッティングしたり、回想場面を挿入したりする近代映画の技法手法」で見事に描き出されている。まさに「日本映画初の芸術大作」というにふさわしい傑作であると、私も思った。中でも一番の魅力は、別荘の令嬢を演じた英百合子の初々しさであろうか。当時は21歳、はち切れんばかりの若さを、自由奔放、のびのびと演じている。彼女もまた少年・太郎から憐れみを施され(八木節姉弟へのカンパ代を立て替えて貰い)、出獄者二人に憐れみを施している(家に招き入れ御馳走をしている)。また、小山内薫の重厚な演技も見逃せない。「人を憐れむ時」をはずしてしまった、悔恨と苦渋の表情は真に迫っていたが、ではどうして「はずしてしまった」のだろうか。許嫁を捨て、自分本位に生きた息子をどうしても許すことができない、妻子に罪はないが、父として、男としては許せない。許嫁に何と詫びればいいのか。息子から決闘を挑まれて「まず他のことはおいても、名誉ある人間が貴様の相手になれると思うか」と吐き捨てた言葉が、すべてを物語っている。杉野は名誉を守り、息子を捨てたのである。その父親像は日本独自のものであろうか。それにしても、この作品の原作はゴーリキー・「どん底」とのこと、あらためてフランス映画「どん底」(監督・ジャン・ルノアール)を見なおしたが、共通点を見出すことはできなかった。また、少年・太郎役を演じた村田実が、その若さで監督であったとは驚きである。いずれにせよ、日本映画が小山内薫の助力により新しい一歩を踏み出した、貴重な歴史的作品を見られたことは望外の幸せであった。感謝。 (2017.7.29)