梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第6章・《訪問》

 「キジョ、キジョ、キジョー」と呟いていたマリ子の声が耳を離れない。初めて聞くマリ子の声は、無表情で、この世のものとは思えなかった。あの時、私たちは無言のまま別れたが、そうするより他に方法はなかった。それ以来、私の胸騒ぎは消えることがないのだ。(どうしよう。マリ子の話し相手になる他はないだろう)
 次の日の午後、私は電話を入れた。
「はい、花形でございます」
「ジョーです」
「まあ、ジョーさん。昨日はごめんなさいね」
「お嬢さんは元気ですか?」
「はい、元気ですとも。『今日も、ワンチャンと散歩がしたい』なんて言っております」
「そうでしたか、それはよかった。では、これから、シロと一緒にお宅へうかがってもよろしいでしょうか」
「どうぞ、いらしてください」
 私は、自宅までの道順を聞き、受話器を置いた。今までの重苦しい胸騒ぎは、一瞬にして吹き飛んだ。(そうか、マリ子は、シロと散歩がしたいのか!) 
私はすぐに犬小屋に走り、シロに呼びかけた。
 「シロ、散歩に行くぞ!、お嬢さんはシロと散歩がしたいんだって!よかったなあ!」 私の声は、弾んでいた。シロはいつものように眠たそうな目を開けると、一言「ワン」と応えた。
駅から徒歩二十分、閑静な住宅街の中に、花形親子の家はあった。今では珍しくなった生け垣に囲まれ、玄関までの敷石には打ち水がほどこされていた。女所帯を感じさせる瀟洒なたたずまいと言えようか、簡素ではあるが、どことなく住人の「文化」を想わせる木造平屋建てに、私は心惹かれた。
玄関のインターホンを押し、名前を告げると、「はい、ただいま」というユキの声がした。まもなく、足音が聞こえ、玄関の引き戸が開いた。そこにマリ子が立っている。
「おはようございます、シロを連れてきました。散歩をお願いします」
私の声は弾んでいた。マリ子は無言だったが、ニッコリと微笑みうなずいた。
「ジョーさん、お上がりになりませんか?」
奥から、ユキの声がする。私は、マリ子とシロの散歩に同行したい、という気持ちもあったが、とりあえず昨日の様子を聞いてみたいという気持ちの方が強かった。
「そうですか、ではお邪魔します」
と言って、シロをマリ子に託した。マリ子とシロは、いつものように、散歩に向かった。
「どうぞ、こちらへ! 」
 靴を脱ぎ、声のする方へ向かうと、十畳ほどの和室にベットが置かれ、ユキは紫色のガウンを着て腰掛けていた。
 「ごめんなさいね、こんな格好で」
「いえ、かまいません。どうぞお楽になさってください」
と言うと、静かに微笑んだ。
 「動けないので、ごめんなさい。そこに、飲み物があります。ジョーサン、どうぞ、召し上がって」
と、サイドボードを指差した。見ると、ウイスキー、ブランディー、ワインのボトルが並んでいる。
(ヘエー、魔法瓶の中身は日本酒だったのに、ここにあるのは洋酒ばっかりだ。誰が飲むのだろうか?)などと思っていると、ユキの声がした。 
「どうぞ・・・。御遠慮なさらずに」
 「はい、ありがとうございます」
と応え、私はナポレオンのボトルを手にした。
 「戸棚の中にグラスがあります。私もいただこうかしら?」
ユキは、七十近い「老婆」に違いなかったが、二人切りになれば、男女の間柄に変わりなく、まだ、そこはかとなく「熟女」の残り香を漂わせていた。あの時に感じた貴婦人のような「艶めかしさ」を確かめるように、私は、グラスをユキの指に握らせ、琥珀色のブランディーを注いだ。
 「乾杯!」
 ユキは、私の顔をじっと見て、
 「ああ、おいしい!」と、囁いた。
心なしか、ユキの身体が私に近寄ってくる。(「来る者は拒まず」が、私の信条である。これまで、何人の相手とこのような場面を経験したことだろう。まだ、私の「身から出た錆」時代は終わっていないのか。私を必要とする相手がいるからこそ、私は私自身であり続けることができるのではないか・・・)などと身勝手な妄想に耽ってると、ユキは、語調を整えて言った。
 「きのうは、本当にごめんなさい」
 「ちょっと、びっくりしました」
「『心の病気』がでてしまったの」
 「どんな状態なんでしょうか?」
 「そうね、私たちのこと、まだ、何にもジョーさんにお話していませんものね」
「・・・・・」
 「あの子は、私の子どもではありません。養女です。私に子どもが産まれなかったものですから、亡くなった主人が、貰ってきたんです。あの子は、四国の貧しい農家に生まれ、一歳の時に私たちの養女になりました。」
 「そうでしたか、では、私の境遇と似ていますね」
「可愛い盛りで、主人も私も、『わが子』同様に育てました」
「そうでしょうね」
 「小学校、中学校までは、すくすくと成長しましたが、高校に入る時、あの子は自分の戸籍謄本を見て、養女であることを知ってしまったのです」
 「・・・・・」
 「ショックでした。それから、あの子の性格が一変しました。私たちと、ほとんど話をしなくなってしまったのです」
 「そうでしたか、私の場合は、承知の上で養子になったのですから、事情が違いますね」
「まもなく、主人が亡くなりました。残してくれた財産で、生活には困りませんでしたが、女所帯で、ずいぶん心細い思いをしてきました。でも、あの子を大学までは行かせましたのよ。国文科で『俳句』の研究をしました」
 「『心の病気』は、いつごろから?」
 「身内のお世話で何とか嫁ぎ先を見つけ、男の子まで産まれましたが、相手のお姑さんと折り合いが悪く、家に戻ってきたんです。お嬢さん育ちで、嫁の務めができなっかたのでしょう・・・」
 「苦労されましたね」 
 「それからです。『心の病気』がはじまったのは。石のように黙りこくっていたかと思うと、突然『私なんか生まれてこなければよかった!』と、大声で叫んだり、裸で家を飛び出していったりしまうのです」
 「そうでしたか・・・」 
 その時だ。ユキは、突然、
 「ジョーさん、助けて!」
と、叫ぶと私の体に、しがみついてきた。私はユキの身体を支えながら、畳の上に横たわり、身体を重ねた。ユキの手が、私の下半身を「愛撫」する。(「あの指だ」と夢想しながら)私の、指も、ユキの胸元に吸い込まれていった。まだ、たわわに膨らんだ胸のぬくもりを確かめながら、私は、唇を合わせた。甘い杏の匂いがした。
 どれくらいの時間が経ったろうか。
ユキは、仰向けに目をつむり、その頬には涙が一筋流れていた。
 玄関の方で、「ワン・ワン」という、シロの声がした。
私は、そっとユキの身体を抱き起こし、ベットに座らせた。          ユキは、私の腕をしっかりと握りながら、
 「アリガトウ!」
と、囁いた。
(マリ子はどう思うだろうか? 今の情事を悟られはしなかったか?)という不安が、一瞬、心を過ぎった。
 その場を取りつくろうように
 「では、またまいります」
と、私は、語調を整え、玄関にも聞こえるような声で言ってみた。特に、変わった様子はない。少しほっとした。
 玄関には、シロとマリ子が静かに待っていた。
 私は、つとめて平静に言った。
 「お帰り、シロ、よかったね、お嬢さんと散歩ができて、楽しかった?」 
シロは応えなかった。
マリ子は、昨日ほどではなかったが、どこかよそよそしく、固い表情でシロのロープを私に手渡すと、ユキの居間の方へ立ち去った。
 「今日は、ありがとうございました。これで失礼いたします」
 私は、奥に声をかけ、シロと家路についた。
 シロは、「ウー、ウー、ウー」と、いつもとは違う声を出しながら、私に従っていた。
(2006.7.20)

小説・「黄昏のビギン」・第5章・《噴水》

 この前は、私よりシロの足取りの方が力強かったが、今回は違う。いつもの散歩コースをあっという間に通り抜け、三時ピタリ、シロと私は駅前の広場に到着した。(いつもの所、いつもの所・・・)はやる気持ちをおさえて噴水のベンチを見ると、花形親子がにこやかな笑みを浮かべてたたずんでいた。
 「ごぶさたしました。待ちましたか?」
「いいえ、私たちも、今、ついたばかりですのよ」
「それはよかった。・・・。あのう、これ先日のお礼です。お口に合うかどうかわかりませんが・・・」
「まあ! 羽二重団子ですね。どうもありがとう。大好物ですのよ」
「そうでしたか。たぶん、そうじゃないかと思って、電話の後、買ってきました」
「それは、それは、御苦労をおかけしました。これ、日暮里でしか手にはいりませんものね」
私とユキが話している間に、シロはもうしっぽを振ってマリ子に飛びかかろうとする。
マリ子も、すかさず、用意してきたサラミを手に乗せて食べさせようとした。
「シロ、大好きなお嬢さんに会えてよかったね。サラミをいただいたら、また、散歩して来るかな?」
と、私が言うと、シロは一言「ワン」と応えた。
「すみません、お嬢さん、またお願いできますか?」
 マリ子は無言でうなずき、私が手渡すロープを受け取ると、シロを連れて立ち去った。
「ジョーさん、お座りになってください、また、お茶でも飲みましょう」
ユキは、ベンチを指差して勧めると、例の魔法瓶を取り出した。
「ありがとうございます、遠慮なく頂戴します」
「チーカマもありますよ!」
「これは、これは。何よりです。昔は、ずいぶんしつこい物を食べ歩きましたが、最近は、『あっさり・さっぱり』が体に合うようです」
「この前のお話、途中まででしたよね。続きを聞かせていただけますか?」
「はい、今日はそのつもりで参りました」
「まあ!うれしい!」
ユキが魔法瓶のキャップに注いでくれる酒を口にしながら、私は話し始めた。
「子ども時代、私は優等生になるよう強制されました。それが嫌で、高校までは我慢しましたが、大学二年の時、『家出』をしました。自由と独立、それが私の信条です。住み込みのアルバイトで法外な金を稼ぐことをおぼえました。異性との交遊も経験しました。ケンカの仲裁に入って失明寸前のケガもしました。大学を出ると就職もしました。結婚もしました。娘二人にも恵まれました。でも、何か満たされないのです。『去る者は追わず、来る者は拒まず』という処世術でこれまで生きてきましたが、それだけでは十分に満足できないのです。心のどこかで、『こんなはずではない』と、叫んでいるもう一人の自分がいるのです。まだ自由ではない、独立してはいない、そんな思いでいる時、私は、別の会社から引き抜かれました。フィリピンで仕事があるというのです。ちょうど日本はバブルの絶頂期で、毎日がお祭りのような雰囲気でした。私はフィリピンで、土地の売買の仕事を見つけました。日本から顧客を集め、フィリピンの土地を格安で斡旋するのです。月に三百万からの利益がありました。それを資金に老人ホームの建設も計画しましたが、これはバブルの崩壊で実現しませんでした。ずいぶん危ない目にも遭いました。仲間の密告で、根も葉もない犯罪をでっち上げられ、裁判にかけられたこともあります。クーデターに巻き込まれ、銃を手にしたことだってありました。」
 「いろいろと、御苦労されたんですね」
「いえ、そんなことはありません。みんな、自分で思ったことを実行しただけですから」
「奥様は?」
「娘二人を連れて、家を出ていきました。当然の結果だと思います。申し訳ないと思っています」
「今は、お一人で、お寂しくはありませんの?」
「寂しいと思うことはあります。でも、自分の信条を無理に通そうとしているのですから、それは、耐えなければならないでしょう」
「そうでしたか。ジョーさんのことがよくわかりました。ありがとうございました」
 ユキは、一瞬、遠い景色を見やるようにして、再び魔法瓶の酒をキャップに注いだ。
しばらくの間、ユキと私は沈黙し、公園の噴水を眺めていた。夕闇までにはまだ時間があったが、早くも照明灯が灯り、七色の光線が噴水を彩りはじめた。噴水の色が、オレンジからグリーンに変わったとき、ユキは意を決したように口を開いた。
「ジョーさん、あの子のこと、どう思われますか?」
「すてきなお嬢さんですね」
「見た目はそうかも知れませんが・・・、実は病気を持っているんです」
「・・・・?」
「心の病気といいますか、ほとんど話をしません」
 そう言えば、まだ娘の声をはっきりと聞いたことはなかった。
「結婚して子どもが一人いたんですが、今は別居して、私と暮らしています。どうしたもんでしょうかねえ」
「そうでしたか。あの時から、お二人のことが気になっていました」
「いつもは、私と二人きり、家の中で暮らしています。私がこんな身体ですから、身の回りのことを頼んでいますが、いつまでこんな生活が続けられることやら・・・」
ユキは溜息をついた。
「そうですか・・・。」
ユキの心根は読みとれるた。私に助けを求めていることは明らかだ。『来る者は拒まず』が、私の処世術なのだから、ここで一肌脱がないわけにはいかないだろう。でも、私に「心の病気」を治すことなんてできるだろうか。しかし、私は迷わなかった。
「もし、私でできることがあれば、何でもおっしゃってください」
ユキは、私の顔を見つめたまま、一瞬、凍りついた表情になったが、次第に目が潤んできた。
「よろしいんですの?本当に?」
「かまいませんよ。私は目下独身、勤めもしていませんので、時間はたっぷりありますから」
「どうか、マリ子の話し相手になってください。お願いいたします」
 ユキは、私を拝むように手を合わせた。
その時、マリ子とシロが戻ってきた。しかし、様子がおかしい。出かけたときとは反対に、シロがマリ子を引っ張っているのである。マリ子の表情は固く、押し殺すような声で何か呟いている。初めて聞くマリ子の声だった。
 「キジョ、キジョ、キジョー」、と言うように、私には聞こえた。何のことだろう。私は、つとめて平静を装うようにした。  
「シロ、お嬢さんと散歩できてよかったね。楽しかった?」
 しかし、その声はうわずり、我ながら愚問だと思った。シロは応えなかった。
マリ子は、無言のままシロのロープをその場に放り出すと、老婆の車椅子を押して、その場から立ち去ろうとした。老婆は祈るように目を閉じ、深く頭を垂れていた。
(2006.7.20)

《コロナ禍》の現況(2)

 厚生労働省のホームページ、新型コロナ「国内発生状況」によれば、①PCR検査実施人数は、7月31日:18382964人、8月14日:19708418人で、この半月で1.07倍の増加だった。同様に計算すると、②陽性者数は(1108269人÷913755人で)1.21倍の増加、③要入院・治療者数は(145871人÷61686人で)2.36倍の増加、④重症者数は(1521人÷667人で)2.28倍の増加、④退院者数は(943260人÷834967人で)1.12倍の増加、⑤死亡者数は、(15383人÷15184人で)1.01倍の増加だったことがわかる。①②④⑤は累計、③④は現在数なので、単純に比較はできないが、この半月で、入院治療を必要とする患者(発症者)と重症者が2倍以上に増えたことはたしかだ。
 為政者、専門家、マスコミ関係者は、未だに不確定な、②の陽性者数(「感染者」)をメルクマールとしているようだが、③の要入院・治療者数や、④の重症者数の「変動」に注目すべきだと、私は思う。「第5波」は感染者数が拡大しているから深刻なのではなく、患者数および重症者数が倍増しているから深刻なのだ。ただし、死亡者数の増加は1.01倍に抑えられていることも特徴だ。
 大切なことは、「感染しない」ことではなく、A:感染しても「発症しない」こと、B:発症しても「重症化しない」こと、C:重症化しても「死なない」ようにすることである。A、Bのためにはワクチン接種者数の拡大、Cのためには医療現場の充実が不可欠であろう。
 現在5700万人余りがワクチン接種を行ったが、まだ発症、重症化を抑えられないのは何故か。発症者、重症者とワクチン接種の相関関係を明らかにする必要がある。また、医療現場の充実のためには、この感染症を2類から5類に変更し、どこの病院でも治療を受けられるような体制を整えることが先決ではないだろうか。 
(2021.8.15)