梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・41

【あとがき】
《要約》
・私自身の遠い昔、小学校の低学年の頃だっただろうか。突然、ほかの子どもたちとの間に大きな距離を感じ始めた時期があった。ふと気がつくと、私は昼休みの校庭で一人きりで、級友たちのどの集団に、どのように近づいていったらよいのか、また数日前まで、私自身、集団の中にどのように収まっていたのか、皆目見当がつかない状態になっているのだった。時間が急に止まったような感じで、どうやったらそれを、もう一度動かすことができるのかわからなくなった。やがて、この距離感はふとしたはずみに解消され、私は集団の中に戻り、時間は元のように動き出したのだが、これが契機となって、人の振る舞い方や時間の進み具合というものを特別に意識するようになった。
・それから20年後、大学院の学生となっていた私は、ある時、プレイルームの滑り台を逆から上りだした一人の自閉症の男の子の行動を眺めていた。すると、その子の行動がふと止まった。彼は行動の行き先を見失ったかのようにしばらく動かず、次なる行動を探っている様子もない。私はこのとき、自閉症児とは行動プログラムを見つけられないでいるこどもなのではないかと、ふと思った。それは、うまく動いている間はほとんど意識されないが、それなしでは時間が動き出さないような重要なものなのではないか。もちろん、脳の固有の障害から生まれる自閉症を、私自身の実感だけにもとづいて解釈してはならないだろう。しかし、自閉症を深い次元で捉えようとするなら、実験データや観察事項の記述だけでは足りず、つまるところは、同じ人間としての自分自身を実験台とした、彼らの心的状態への共感が必要になってくるのではないかと思う。私は、本書の中で自閉症者のこころの状態を考えるとき、最初に紹介した私自身の体験を原風景のようなものとして何度か役立てたような気がする。
《感想》
・ここでは、著者が小学校低学年の時に体験した「級友、集団からの距離感」「時間が止まってしまった感じ」について触れ、研究者には「同じ人間としての自分自身を実験台とした、自閉症者の心的状態への共感が必要になってくる」と述べられている。そのことに私自身も「全面的に同意」するが、本書の中で、そうした著者の体験が、自閉症者のこころの状態を考えるときに「役立っていた」かどうかは疑問である。
・著者は、自分自身の体験(原風景)を、20年後に遭遇した自閉症児の行動と「重ね合わせて」いるようだが、それならば、まず、「突然、ほかの子どもたちとの間に大きな距離を感じはじめた」のはどうしてか。「ふと気がつくと」(たしかに、実感としてはそうかもしれないが)という表現は、曖昧過ぎる。また、「やがて、この距離感はふとしたはずみに解消され、私は集団の中に戻り、時間は元のように動き出した」という一文でも「《ふとしたはずみに》解消され」とういう表現が使われている。それでは、「同じ人間としての自分自身を実験台」に乗せていることにはならないではないか。
・大切なことは、著者の体験と自閉症児の行動に見られる《共通点》を探り出すことである。著者が「脳の固有の障害から生まれる自閉症」と《断定する》限り、著者にもまた「脳の固有の障害」がある、という共通点が示されてしまうのである。
・著者は、「あるできごと」が原因となって「級友、集団」から距離をおいた(回避・逃走した)に違いない。そしてまた「あるできごと」によって、その状態が解消(接近・交流)したのである。その「できごと」を究明することなく「ふとしたはずみ」などという実感だけに「もとづく」ことは許されない、と私は思う。
・本書が刊行されてさらに20余年が経過したが、自閉症の要因が「脳の固有の障害」か、「生育環境」か、は未だに不明である。現状は「脳の固有の障害」だとする専門家、研究者が「圧倒的に多い」というだけのことである。残念ながら、その「謎」が本書で解き明かされることはなかった。しかし、著者の真摯な研究に敬意を表し、感謝申し上げ、本書の再読を終了する。
(2016.3.3)