梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・38

【人間の脳がもつ制約】
《要約》
・自閉症者が私たちと同じように生きていくことがこのように困難になったのは、彼らに特有な脳の障害が現れたからにほかならない。その制約をもって生きてきたことが、彼らを「自閉症」らしくしてきたのである。
・障害のない「われわれ」も、脳や認知の仕組みによってもたらされるさまざまな制約のもとで生きている。たとえば、記憶能力に関して非常に大きな制限をもっている。私たちの脳に貯蔵されてると考えられている記憶の量は膨大だが、今この時、出し入れできる情報の量は、七プラス・マイナス二の要素であるに過ぎない。つまり、私たちの記憶世界は順々に展開してみるととてつもなく広大であるけれどども、今この時かいま見ることができるのは、わずかな領域なのである。
・また、私たちは、喜怒哀楽に代表されるようなさまざまな感情をもっているが、今この時には、その中のいずれかの感情を経験できるだけである。さらに、それらの間での切り替えは悪く、今怒り出した「私」は、しばらくは平静な時の「私」にシフトできないのである。このように、人の脳は総体として見ると偉大でありオールマイティと思えるほど強力だが、瞬間瞬間に私たちが使える脳の働きはきわめて制限されたものなのである。
・だが、このような制限にもかかわらず、私たちは、今この瞬間の「私」だけが「私」ではないことを知っている。私たちは幸いにも、良い判断ができないときには、考えがまとまるまでしばらく待つことができるし、怒りの中でも、いつか平静な「私」が訪れることを期待することができる。このようにして、今の「私」は、別の「私」に引き継がれることを前提として生きているのである。
《感想》
・ここでは、障害のない「われわれ」も、自閉症者と同様に「脳や認知の仕組みによってもたらされるさまざまな制約のもとで生きている」ことが述べられている。著者は、その例として、①記憶能力の制限、②感情の制限、を挙げている。また、②では〈このような制限にもかかわらず、私たちは、今この瞬間の「私」だけが「私」ではないことを知っている。私たちは幸いにも、良い判断ができないときには、考えがまとまるまでしばらく待つことができるし、怒りの中でも、いつか平静な「私」が訪れることを期待することができる。このようにして、今の「私」は、別の「私」に引き継がれることを前提として生きているのである〉とも書かれているが、そのことと、自閉症者にもたらされている《制約》とは、どのような関係があるのだろうか。私たちは、「感情の制限」という制約を、今の「私」が別の「私」に引き継がれることを前提として克服しているが、自閉症者の場合は「それができない」という結論になるのだろうか。
・しかし、ともかくも著者が本章の冒頭で述べた《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴について》、話が及んできたようである。強い関心を持って、以下を読み進めたい。


【多重人格者としての人間】
《要約》
・だが、今の「私」と別の「私」の間に断絶が生じたらどのようなことになるか。その姿は、ダニエル・キイスの小説「五番町のサリー」「二十四人のビリー・ミリガン」の主人公たちで確認できる。彼らは、ある感情とそれにまつわる記憶によって支配された何人かの人格を内側にもっている。それらの人格の間での行き来はほとんどない。断続的に現れるある特徴をもった人格同士が結合し、他とは独立した記憶や感情のシステムをもっている。たとえば、「五番町のサリー」では、内気なサリーは耐えられない事件に出くわすと、無意識のうちに内部の四つの人格、デリー、ノラ、ベラ、ジンクスにスイッチしてしまう。そして、それぞれの人格は、自分が引き起こした出来事の後始末を次なる人格に押しつけたまま、自分自身はさっさと消えてしまうのである。
・健常者でも、その脳の働きからして、一つの揺るぎない人格をもっているわけではない。その意味では、誰しもが多重人格者であるということができるだろう。
・「五番町のサリー」の事態の推移に似た現象は、自閉症者にも時折見られる。ある時点の人格がそれに続くか、またはそれに先行する人格と無関係であるかのような振る舞い方をする点では、多重人格者に似ているのである。その好例が、パニック時の自閉症者の反応であるということができるだろう。パニックは、いったん始まると発火点まで上昇し、ガラスを割ったり、人や自分に危害を加えることもあるが、パニックが終わってしばらくすると、彼らは意外にケロリとしていて、先ほどの騒動は嘘のように感じられることが多い。今の「彼」に反省を促してみたところで、もはやパニック時の「彼」に働きかけるためのルートはなくなっている。
・もう一つ興味深いことは、パニックを生み出す状況と、その発現と、周囲の対応とがセットになっていることが多いということである。ある状況がつくられたときだけにパニックを引き起こす特定の人物が現れるわけで、種々の状況とセットになって現れる多重人格者にやはり似ているのである。たとえば、暴力をたびたびふるうことのある自閉症者の場合でも、まだ暴力をふるったことのない相手に仕掛けていくことはめったにない。しかし、一度、不快な状況でAさんに暴力をふるい、とりおさえられ、なだめることを経験すると、不快な状況を感じ取り、その場にAさんの姿を見かけると、前回と同じ感情爆発のルートをたどりやすくなってくる。そこで、このルートにあるAさんか、または「なだめ、すかす」という対処法を外してしまうと、パニックが起きにくくなるということもあるのである。
《感想》
・ここで述べられていることは、私にとって「わかったようでわからない」。要するに、健常者である「われわれ」は、今の「私」と別の「私」に《断絶》は生じていないが、多重人格者は断絶している。自閉症者も、パニックの場面の様子を見ると、断絶しているように思われる、ということであろうか。しかし、著者は「健常者でも、その脳の働きからして、一つの揺るぎない人格をもっているわけではない。その意味では、誰しもが多重人格者であるということができるだろう」とも述べているので、誰もが皆、今の「私」と別の「私」に断絶が生じているということになって、著者が「何を言おうとしているのか」理解に苦しむことになるのである。しかも、多重人格者の事例は小説の登場人物、虚構の産物に過ぎないではないか。
・私の独断・偏見によれば、自閉症者のパニックは、①「感情(不快感・怒り)の表現」と②「相手の注目を求める(愛着心の裏返しをする)」ための行動である。健常者である「われわれ」が、幼児期《誰しもが》経験した行動に過ぎない。自閉症者は、周囲とのコミュニケーションが《断絶》しているために、まだ幼児段階の行動パターンから脱出することができない、または「引きずっている」ということである。
・著者は〈たとえば、暴力をたびたびふるうことのある自閉症者の場合でも、まだ暴力をふるったことのない相手に仕掛けていくことはめったにない。しかし、一度、不快な状況でAさんに暴力をふるい、とりおさえられ、なだめることを経験すると、不快な状況を感じ取り、その場にAさんの姿を見かけると、前回と同じ感情爆発のルートをたどりやすくなってくる。そこで、このルートにあるAさんか、または「なだめ、すかす」という対処法を外してしまうと、パニックが起きにくくなるということもあるのである〉という事例を紹介しているが、その自閉症者は「暴力をふるう」ことによって、Aさんから「なだめ、すかされ」取り押さえられること自体(事態)を求めているかもしれない。そうした形でしかコミュニケーションがとれない(断絶している)のかもしれない。
・大切なことは、健常者である「われわれ」と、多重人格者、自閉症者と呼ばれる「人々」の差異ではなく、お互いの共通点を明らかにすることではなかったか。著者が本章で明らかにしようとしている《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴》は、未だに判然としなかった。(2016.2.25)