梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・31

【顔のない人々】
《要約》
・ヒトという種は、他の動物にはないいくつかの表情を生み出した。その代表格が、笑顔によって表される感情である。「裸のサル」(角川文庫)の著者として有名なデズモンド・モリスは、笑顔の起源は泣き顔であり、微笑は、怒りや恐れの感情が発展して現れた可能性が大きいと述べている。つまり、相手に恐れも怒りも呼び起こす必要がないことを請け合い、安心させる目的で発生したものである。それは、人において表情筋が発生した原因であり、結果である。
・自閉症児の場合も、怒りや恐れの感情が発生する。しかし、その後の感情分化が乏しく、それゆえ表情にも、またそれを生み出す顔という場所にも注意を向けない傾向があるようだ。
・事例:自閉症の男児K君が10歳の頃よく描いていた風景画の特徴は、独特な三次元的な描画法にある。車のボディ、電柱、変圧器、看板などが折り紙細工のような立体構造で描かれている。しかし、路上の人物の頭部は、車や自転車のタイヤと同じように、ただ丸いだけであった。(「顔」(目・鼻・口)がない)
・自閉症者が人の顔に注目しない理由として、特別なタイプの脳の障害の結果起きる相貌失認であるかもしれないと考えられたことがある。この障害になると、人の顔の見分けがつかなくなる。しかし、ほとんどの自閉症者は人の顔を見分けている。けれども、そこに表情という付加価値を認めていない。この付加価値のついていない場所(顔)は、彼らにとって重要な意味をもたない。
【感情の同調】
・私たちは、人に満面の笑みで迎えられると、つい同じような笑みを返してしまうものだ。このような表情の交流は、感情の同調によるものである。私たちがいつこのこころの働きを手に入れたかは定かではない。しかし、それが人生の最初のほうにおいてだったことは確かだと思う。
・ところが、自閉症者とはこのような感情の交流をおこないにくい。
・感情の交流・同調は、言葉や動作による場合と比べて、非常に難しい。相手の感情を最も明瞭に捉えることができるのは顔の表情だが、それは視覚によって認知される。一方、自分自身の表情について認知しようとすると、目には見えない顔面の筋肉感覚によるしかない。目に見える相手の変化に対応するものはすべて内部的なものであり、両者は近いようでいて本当は遠い世界である。しかし、乳児は早くも零歳の前半に、おそらく本能的なメカニズムによってこの能力を身につけてしまうのである。
・このように考えると、自閉症者にとって、感情の世界が言語や行動の世界以上に了解困難なわけがわかるような気がする。彼らは、異なる感覚様式で捉えられたものの間を結ぶ共通感覚を育てることができなかった人たちと言える。
・よく泣き、よく笑う幼い人たちの集団は、そうしながら共通感覚の基礎を固めているが、自閉症児は、そのような感情の渦から一歩も二歩も退き、外部世界をあまりにもクールな目で見つめながら成長していくことになってしまうのである。
《感想》
・ここでは、人間の感情が怒りと恐れをルーツにしていることを前提として、それが「笑顔」によって表される感情に発展することが述べられている。その感情とは「相手に恐れも怒りも呼び起こす必要がないことを請け合い、安心させる目的」をもつものであり、つまるところ《安心感》という感情に他ならない。
・筆者は「自閉症児の場合も、怒りや恐れの感情が発生する。しかし、その後の感情分化が乏しく、それゆえ表情にも、またそれを生み出す顔という場所にも注意を向けない傾向があるようだ」と述べているが、それを私なりに言い換えれば、「自閉症児の場合、発達初期において恐れの感情が大きく、それが軽減され安心感へと変わることが乏しかった。そのため、つねに緊張(ストレス)状態にあり、周囲の人の顔や表情に注意を向ける(こころの)余裕がなかった」ということになる。
・では、なぜそのような結果になってしまったのか。筆者のとりあげた「特別なタイプの脳の障害の結果起きる相貌失認」とか「本能的なメカニズム(の欠如)」とは全くかかわりなく、以下のような事情によるものだと、私は推測する。筆者が動物行動学者、デズモンド・モリスの著書から引用しているので、私も、彼の著書「ふれあい 愛のコミュニケーション」の読後感想から引用する。
◆イギリスの動物行動学者デズモンド・モリスは、「ふれあい 愛のコミュニケーション」(石川弘義訳・平凡社・1974年)という本の中(第九章)で、20世紀のはじめ頃、かなり広く普及していたワトソン式育児法を引用しながら、貴重な「育児論」を展開している。まず、アメリカの高名な心理学者であるワトソンが提唱した育児法とはどのようなものか。モリスの引用によれば以下のとおりである。
〈無知な母親がいる。彼女たちはいつも子どもにキスを浴びせ、抱きかかえ、揺すり、体をなで、くすぐっているけれども、そういう猫可愛がりは、子どもの健全なエゴの形成を歪めるものなのだ。社会に出て、他人と互角に競争できないような人間を作っているのである。しかもこのことを彼女たちは知らない・・・。賢明な幼児教育はかくあるべきだ。子どもを、大人と同等に扱うこと。・・・絶対に、子どもを抱きかかえたり、キスしたりしないこと。ひざののせてあやさないこと。どうしてもキスしたいなら、「おやすみなさい」のとき額に1回だけにすること。・・・すべての猫可愛がりはやめて、懇切な言葉で説明してあげる、あたたかい微笑で愛情を伝えてあげるなどのように、母親が自己訓練しなければならないのだ。子守が雇えなければ、裏庭に外部からの危険な侵入が防げるだけの柵を設け、その中に一日中放っておくくらいがかえって子どものためになる。できるだけ早く、このような育て方をはじめなさい。・・・そんな放任育児はとても心配で、と思う母親は、のぞき穴かかくし戸を使って、子どもの目に自分の姿が見えないような工夫をすること。そうして最後に、赤ちゃん言葉やあやし言葉は絶対につかわないこと〉。
 この育児法について、著者のデズモンド・モリスは以下のように批判している。
①ワトソンは、(大人たちと同様に)母子がのぞき穴を通して接触するの理想としているらしいが、それこそ現代人が社会生活に自己を適応させる条件としてとっている「他人」への態度そのものではないか。
②ワトソン式のアプローチは、「人間にはもともと本能などないのだ。幼児期に獲得したものがすべて年齢を経て、表面に出てくるのである。人間の本性の中に眠っているかくれた能力などというものはあり得ないのだ」という行動主義の思想がその根本にある。鍛錬された大人になるためには、まず幼児の時から訓練することが、最も重要になる。訓練の開始が遅くなればなるだけ「悪い習慣」が形成されてしまう。これは、まったくの誤謬といわねばならぬ。
③人間の本性に反したこのやり方は、幼児に深いきずを与えてしまう。幼児が本能的に求める両親(特に母親)とのボディタッチによる親密性がたえず阻止あるいは禁止される結果、泣き声に表現される子どもの悲哀と絶望は、深いきずを作ってしまう。
④このようにして育った人間には、大きな欠点がついてまわる。他人への不信感がぬきがたく彼の性格に一部にあるということだ。つまり愛し、愛されるということへの強い衝動が、このように原初的な段階で阻止されていらい、愛するというメカニズムがいつまでも破壊されっぱなしの状態なのである。
⑤だが、このような人間も、世間の慣習通り、一人の男(女)として、配偶者を得、子どもを得ることだろう。そうしてこのサイクルがつづくと、血の通った両親の情愛というものが。地上から消えてしまうことになる。
 この育児法に対して著者・デズモンド・モリスは、以下のような「育児論」を展開している。〈最初から、赤ん坊をヤング・アダルトとしてではなく、「赤ん坊」として扱うだけでいいのだ。生まれたばかりの赤ん坊に、母親がありったけの愛情を与えることが何と言っても必要なのである。出し惜しみはいけない。「ほどほどの」愛情ではだめ、できるかぎり努力して愛情をあたえなくてはならない。事実、自分自身の幼児期に歪んだ育児体験を受けていない通常の母親ならば、人間の自然の情として、最高最大の愛情をわが子にふりそそぎたいという衝動にかられるはずなのだ。(中略)このようにして母親の愛情を充分に亨けて育った子どもはいわゆるだめな子になるどころか、年齢が多くなるにつれ、独立心にとむ個性となる。他人への情愛が、周囲の現実への生き生きした関心と探究心が、何にも阻害されないで同時に身につくので、間違っても「だめな子」になる心配などない。実際、幼い時に、自己についての安心感と保護感覚を充分に保障された子どもは、ある年頃になると、その生存への自信を基盤に、思いきり人生の開拓へと羽ばたきはじめるものなのだ。(中略〉満二年間十分な愛情ではぐくまれた子どもは、三年目になると、確かな足どりで外部の世界を歩みはじめる。(中略)以上のことはいいかえると次のようになる。愛情で全面的に結びついた関係が一度親子の間に確立されると、その子どもは、次の成長の段階にうまくすすむことができる。現実の世界のなかに全身でぶつかるこの段階へきたとき、はじめて、子どもは両親からしつけられ、教育される必要が出てくるのだ。赤ん坊のときにやってはならなかったことを、今度こそ、子どもは必要とするのである。子どもに対する過保護・溺愛を禁じるワトソン式育児法は、満二歳以上の幼児に限っては、あるていど正しいといえる。しかし皮肉なことに、赤ん坊のときにやかましいワトソン式しつけを強制された子どもが、せっかく正しいしつけを開始すべき満二歳以後になってから妙に反抗的になり、そのためにかえって親が過保護にこの子を扱うはめになりがちなのだ。一方、赤ん坊時代に、親に充分に愛情をかけられた子どもなら、へんに反抗したりしないに違いないのである〉。
 以上が、デズモンド・モリスの「育児論」の前半である。ワトソン式育児法は20世紀はじめに提唱されたそうだが、その一節を読んで共鳴する両親は、現代でも少なくないだろう。時代は21世紀に入り、「弱肉強食」「優勝劣敗」の傾向は、ますます顕著になっているように思われる。そんな折り、「社会に出て、他人と互角に競争できないような人間を作っているのである」といった警告には説得力がある。しかし、その根底には、自然の摂理に反した「合理主義」「功利主義」が潜んでいることを見逃してはいけない、と私は思う。はたして、デズモンド・モリスの、貴重な(動物行動学的)「育児論」が、どこまで行き渡っているか、それが問題である。〈2014年7月〉(2016.1,16)