梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・28

《第6章 自閉症の時間世界》
《要約》
【時の遠近感覚の謎】
・自閉症者は、私たちと同じような時の遠近感覚をもっているのだろうか。
・自閉症者は、私たちとは異なる記憶世界を生きているようである。ということは、過去・現在・未来を対照しながらつくり上げていく時間認識の世界も私たちとは異なるものとなっている可能性がある。この章では、この問題を追求してみることにする。
【昨日・今日・明日がわからない】
・昨日よりも一ヶ月前は遠く、一ヶ月前よりも一年はさらに遠い。この遠さの感覚を、私たちは、現在からその時点までの間の出来事の量、出会った人の数に応じて、記憶内容が次第に不鮮明になっていくと感じる。出来事の量を測ったり、会った人の数を数えたりしないから、それはあいまいな量の感覚である。
・ところが、自閉症者には、時間のこのようなアナログ的な捉え方がむずかしいようである。エリーの母親は娘のそのような特徴について「今日、買い物にいかないと知って、落胆しているエリーを慰めるには、『明日』と約束するよりも『金曜日』といった方がよい。『今すぐ』よりも『三時に』の方がききめがあるのだ。そして、金曜日なり三時になるとちゃんと催促にくるのである。」(「自閉症児エリーの記録」)エリーが理解できないでいるのは、「昨日・今日・明日」の世界ばかりでなく「すぐに」や「さっき」の世界でもある。それらは、現在に視点をおいて、時間の流れの前方や後方をアナログ的な量にもとづいて眺めてみたときの表現である。現在時刻はたえず変動していくから、昨日・明日・さっき・すぐに、は特定できない相対的な位置にあることになる。エリーはこのことが理解できないので、何月何日何時何分という特定できる絶対的な時間表現の世界で生きているのである。
・テッドもまた「もうすぐ」や「ちょっとしたら」が理解できなかった。父親は悩んでいたが、「もうすぐ」ではなく「10分したらすむからね」と言い換えると、テッドは理解できた。(「見えない病」)
・このような特徴は、自閉症者が根底にもつ特徴につながるものである。
【三人称的な時間】
・コロンブスのアメリカ大陸の発見については、それが起きた年を1492年と年号で表すことしかできない。それは、私たちとは直接関係のない「三人称的な時間」の中で起きた事件である。
・これに対して、私たちがふだん経験する日常的な時間はまったく異質なものである。それは、まわりの人と一緒に経験する出来事の連続的なつながりの中で測られるものであり、「一・二人称的な時間」と呼ぶことにする。
・前者は「絶対時間」、後者は「相対時間」と呼ぶこともできる。
・自閉症者には「一・二人称的な時間」の感覚が乏しい。それは、彼らがもともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていないから、また、それにもとづいて過去の出来事について語らうことがないから、であると思われる。彼は、人々の中にあってもひとりぼっちである。そこで、彼がまったく一人だけでも利用できる時間は、誰のものでもない時間、つまり三人称的な時間となる。
・私たちは、動・植物の観察するときなどは(私たちと直接には交渉のない世界で起きている事柄だから)「絶対時間」を使う。それと同じように、自閉症児は、成長のある時期に、他の健常な人々の世界に気づき、それを覗くようになったのだろう。その人々が暮らす世界の一角に時計やカレンダーがあることを発見したのだろう。そして、自分の世界に介入してくることのあるその世界の人々の動きを観察するために、こころの時刻をそこにある時計とカレンダーに合わせることをしたのではないだろうか。
《感想》
・ここでは、私たちが「昨日・今日・明日」「もうすぐ」「ちょっとしたら」という言葉で時間を表現したり理解しているのに,自閉症児・者はその意味(時間感覚)を理解できない(感じ取れない)。「それは、彼らがもともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていないから、また、それにもとづいて過去の出来事について語らうことがないから、であると思われる。彼は、人々の中にあってもひとりぼっちである。そこで、彼がまったく一人だけでも利用できる時間は、誰のものでもない時間、つまり三人称的な時間となる。」と述べられている。
・私自身も、その内容に同意する。しかし、著者の言うように、「このような特徴は、自閉症者が根底にもつ特徴につながるものである」かどうかは《疑問》である。
・自閉症児・者が「もともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていない」と言うとき、《自閉症児・者と人々との「関係」》自体が問題なのである。いうまでもなく、関係とは一人ではつくれない。自分と他人が(接近して)「私」と「あなた」と呼び合う(「ボク」と「キミ」でもよい)「関係」を成立させるためには、自分だけでなく相手の「あり方」も問われなければならない。私たちは通常、見知らぬ他人のことを「彼」「彼女」(三人称)という。それは「第三者」という関係であり、「他人の関係」である。ところが、自閉症児の両親は、時たま「わが子」のことを「彼」「彼女」と言う場合がある。私はそのたびに「違和感」を感じてきたのだが、もしかしたら、自閉症児の両親は「わが子」のことを「第三者」として見ているのではなかろうか。だとすれば、自閉症児自身もまた、両親のことを、「彼」「彼女」という「第三者」として見てもおかしくない。つまり、その家族においては、お互いを「第三者」として見る、そして係わる傾向があるのではないか。これは、私の独断・偏見による邪推に過ぎないが、自閉症児・者が「もともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていない」要因は、自閉症児・者の側だけにあるのではなく、彼をとりまく周囲の人々の側にもあることが推測される。もし、両親が初めから彼を「第三者」として接し、係わっていたとしたら、彼が一・二人称的な関係を築けなくなることは当然の結果であろう。子どもの誕生以来、両親はじめ周囲の人々が「これまで、どのような接し方、係わり方をしてきたか」ということも、検証されなければならない、と私は強く思う。(2015.12.29)