梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・27

【質問しない子ども】
《要約》
・健常者と自閉症者には、記憶方法に違いが見られるが、その結果、脳に貯えられる知識の世界はかなり違ったものとなるに違いない。
・健常者は、互いに似たような対象に注目し、似たような方法で記憶していくから、知的な財産も互いに照合しやすいものとなる。自閉症者の場合は、私たちの場合とは異なる対象に注目し、彼特有の方法で記憶するから、その財産は公開しようがないのである。それらが絵画や音楽などの形をとって長年貯えられたとき、その世界は私たちには手の届かないものとなっていることがある。それが、イディオ・サヴァンの世界である。
・知的な世界を照合できるということは便利である。幼い子どもは、経験の乏しい自分の知識内容を大人のそれと比べて質問しては、足りないところを補っていく。幼い子どもは、物を取り合い、自分のなわばりを拡張しようとしているのと同じく、知識についても奪い合い、知のなわばりを拡張しようとする。それだけに、二~三歳も子どもの「コレナーニ?」「ドウシテ?」という質問癖は激しいのである。
・けれども、自閉症者はなかなか質問してくれない。それは、彼らが知識構造を人に合わせて構築してこなかったことを考えると当然の結果なのである。自閉症児の中にはときおり、「先生の名前は?」「どこから来たの?」と聞く者がいる。それは知識の範囲を拡げようとしているのでなく、質問・応答のパターンを楽しんでいるだけなのである。
・質問の乏しさは、自閉症者の根本的な問題に係わる特徴なのである。
・ただし、自閉症者も、漢字の読み書きや行事予定など、答のはっきりした事柄なら質問してくることがある。だから、そこから出発して知識の交換を増やしていけば、私たちと自閉症者の間には共通した知識の構造がつくられていく可能性があるのである。
《感想》
・ここで、「自閉症者はなかなか質問してくれない。それは、彼らが知識構造を人に合わせて構築してこなかったことを考えると当然の結果なのである」と述べているが、なぜ、彼らは知識構造を《人に合わせて》構築してこなかったのだろうか。彼らの「脳の機能」が原因なのか(著者はおそらくそう考えているだろう)、その他に原因があるのだろうか。/・私の独断・偏見によれば、「構築してこなかった」のではなく「構築してこれなかった」のである。通常、私たちは「知識構造を人に合わせて構築」するというより、「人を通して」「人から」学ぶと言った方が正確である。その方法は、「言葉」以前のノン・バーバルなコミュニケーションが土台となっている。初めは「泣き声」によるコミュニケーションである。次は「表情」「動作」に「声」(喃語・ジャーゴン)が添えられたコミュニケーションである。とりわけ、「声」の抑揚(イントネーション)による「やりとり」は重要である。その「声」を聞いただけで、おだやかに叙述しているのか、怒って要求しているのか、あるいは「質問」しているのか、が分かるからである。「声」が「音声言語」(一語文、二語文)に発展した以後も、この「イントネーション」による「やりとり」はますます活発になる。同じ「ママ」でも、「ママ、見て」(呼びかけ)、「それはママです」(叙述)、「ママですか?」(質問)といった内容を「イントネーション」によって使い分けるようになるのである。そのイントネーションは、いうまでもなく周囲の大人が発しているものを「模倣」することによって「学ぶ」(習得する)のである。
 もし、周囲の大人がノン・バーバルなコミュニケーションを「軽視」していたらどうなるか。もし、周囲の大人が「一本調子」の抑揚のない話し方をしていたらどうなるか。もし、周囲の大人が子どもに全く「問いかけなかったら」どうなるか。要するに《質問・応答》という「やりとり」の《手本》を「やって・見せなかったら」どうなるか・・・。
 そのような「言語環境」の中で、子ども自身が周囲から《孤立・断絶》「させられる」状態が続けば、①相手に尋ねるという気持ちが育たない、②質問特有のイントネーション(発声)の仕方を学ぶ(模倣する)ことができないのは、当然の結果なのである。
・自閉症児が「質問をしてくれない」のは、自閉症児自身の中に原因があると《断定》することは早計であり、彼自身が「どのような言語環境のもとで育ったか」「周囲の大人は、発達初期(乳幼児期)の段階から、どのような《かかわり方》《接し方》をしてきたか」ということも、併せて「検証」しなければならない、と私は思う。
・著者が指摘するように、私自身も自閉症児から、「先生の名前は?」「どこから来たの?」と聞かれたことがある。しかし、「それは知識の範囲を拡げようとしているのでなく、質問・応答のパターンを楽しんでいるだけなのである」とは思わない。次回からは、「先生の名前は○○だよね」「先生の家は○○市にあるよ」などと、明らかに「知識の範囲」を拡げていたからである。また、著者は「自閉症者も、漢字の読み書きや行事予定など、答のはっきりした事柄なら質問してくることがある。だから、そこから出発して知識の交換を増やしていけば、私たちと自閉症者の間には共通した知識の構造がつくられていく可能性があるのである」とも述べているが、その事実こそが、《環境が変われば》「彼らが知識構造を人に合わせて構築」しようとすることを《実証》しているのではないだろうか。(2015.12.28)