梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・25

【文字言語の世界】
《要約》
・(音声言語を獲得するためには)音と状況の同時進行的な世界を見守り、関連づけないと理解されない。これは非常にむずかしいことであり、健常な子どもでも、初期の言語発達には時間がかかるのである。自閉症児の注意の状態は、言語獲得には特に不利な面があると思われる。視線が一点にとどまることが少ない。彼らの視線は、他の人を見ないだけでなく、まわりで起きている出来事をもしつっこく追跡しない。このことは、言葉とその意味をつくる世界の同時進行的な動きを捉えるには不利な条件となっているのである。
・ところが、文字言語となると、それは決して消えていかず、目の前にとどまる。時間的な進行に従わなくても、前からでも後ろからでも何度でもう読むことができる。一人きりで接することのできる言葉の世界だ。だから、自閉症児が平仮名や漢字やローマ字に関心を示しやすく、ときには音声言語よりも早く文字言語を習得するのは、彼らの特性からすると当然のことなのである。
・10歳の自閉症児H君は、まだ人と話をすることもできないが、物語を書き始めると非常に集中力を示し、一気に書き上げてしまうとのことである。けれども、「どんなお話だった?」と聞いても、内容をまとめることができない。
・自閉症者の記憶世界は、第一に空間的な構造に依存しているようである。文字言語に興味をもちやすいのは、それが時間的な刺激の特性をもつ音声言語を空間的な構造に置き換えているからである。実際の音声は、左から右に進んだり、上から下に進んだりするものではない。しかしそれが文字になると、空間的な方向が与えられてわかりやすくなるのである。
・第二に、自閉症者の記憶世界では、情報の圧縮ができないようだ。H君は、物語を一字一字たどってしまい、先の方へと飛躍したり、物語の全体を鳥瞰したりすることができない。その理由は「出来事の基本構造」のような、いろいろな経験に当てはまるモデルをもっていないためと考えられる。(物語については、認知心理学者の中に、私たちが無意識に使っている物語理解のための枠組みを探究する研究分野があり、「物語文法」というモデルを提案している)自閉症者は、このようなモデルをもたないために、入ってくる刺激を機械的に記憶することになり、また、この能力については健常者以上になることもあるわけである。
・自閉症者のもつこのような特性は、知的な活動において有利な面もあれば不利な面もあることは充分想像できる。自閉症者の知能構造は非常にアンバランスなものになっているのである。次に、それをWISC知能診断検査の結果からみつめてみることにする。
《感想》
・ここでは、①自閉症児が、音声言語よりも文字言語を獲得しやすい理由、②自閉症児の記憶世界は空間的な構造に依存しているようだ、③自閉症の記憶世界では、情報の圧縮ができないようだ、ということが述べられている。
・しかし、私が知る自閉症児は、生後8カ月頃から「絵本を読んでもらいたがり」、1歳
を過ぎると、その文章を「暗誦」するようになった。また、童謡・唱歌を聞いて、「暗唱」するようになった。リズムやメロディーも、周囲の者が驚くほどに正確であった。2歳までに、「数字」「平仮名」「アルファベット」を「音読」できるようになった。だとすれば、「自閉症児の記憶世界は空間的な構造に依存している」とばかりは言えないのではないだろうか。一方、H君同様に「物語を一字一字たどってしまい、先の方へと飛躍したり、物語の全体を鳥瞰したりすることができない」ことは確かである。両者に共通することは「入ってくる刺激を機械的に記憶する」点であり、刺激が「音声」であっても「文字」であっても変わりがないのではないか、と私は思った。また、「音声」を「文字」化して「分かりやすく」する方法は、テレビ報道の常套手段であり、私たちの記憶世界と大差はない。・要は、なぜ「入ってくる刺激を機械的に記憶するか」という一点に絞られる、と私は思うが、それは必ずしも自閉症の「特性」とは言えない。知的障害児、学習障害児にもそのような傾向は見られるからである。私たち自身ですら、見知らぬ世界に放り出され、見知らぬ言語を浴びせられれば、まず「刺激(情報)を機械的に記憶する」他はないであろう。事実として、私たちの「英語学習」の方法、またその結果が、そのことを実証している。アルファベットや単語(文字言語)を《見て》「読み書き」できるのに、英語(音声言語)を《聞いて》「会話」することにはつながらない。なぜだろうか。
・自閉症の「問題」を「特性」として捉えようとするかぎり、「謎」を解き明かすことはできない。むしろ、私たちとの「共通点」を探ることの方が有効的ではないだろうか、と私は思った。(2015.12.25)