梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・24

《第5章 自閉症の記憶世界》
《要約》
【視線の謎】
・うつろな、あるいは遠くを見ているような自閉症者の視線は、いったい何を写し取っているいるのだろう。そして、何を記憶世界に送り込んでいるのだろうか。
・本章では、自閉症者に観察される記憶の世界を訪ねてみることにする。
【時間的世界と空間的世界】
・外部世界は、物を中心に見つめている限り、静止した空間世界だが、他の人の介入によって生じる出来事に注目すると時間的な変化を伴う世界となる。ところが、自閉症者は他の人々を無視し、その介入を好まない。また、自閉症者にはプログラミングの力があまり育っていない。すると、彼らの捉える世界では、目に映る空間的な構造のほうが強調され、時間的な展開のほうは無視されやすいのではないだろうか。彼らの認知や記憶の方法は、時間よりは空間を重視した構造をもつようになる可能性がある。
◆ハームリーとオコナーの実験(ウィング編「早期小児自閉症」星和書房)
〈横に三つ並んだ窓〉の付いた窓枠が三つ横に並んでいる。実験者は(初めに)左の窓枠の「右の窓」から《3》、(次に)中の窓枠の「左の窓」から《9》、(最後に)右の窓枠の「中の窓」から《7》という数字を提示し、どんな数字が出てきたかを被験者に聞くという実験である。
・健常な児童(10名)のほとんどは「397」と再生したが、自閉症児(10名)は多くの場合「973」というように、左からの空間的順序で数字を再生した。また聾児(10名)の場合も自閉症児と同じような反応の傾向を示した。
・自閉症児も聾児も、発達の初期に音声言語の影響を受けにくい世界で育ったために、外部からの刺激を時間的に捉えることは少なくなり、結果的に空間的な枠組みのほうを重視した捉え方をするようになったとも考えられるのである。
・しかしこのことは、自閉症児の孤独なこころのあり方が外部世界の空間的な構造の重視につながったという可能性を打ち消すものではない。音声言語も、人々が出来事に参加する中でコミュニケーションの必要から生まれたものである。だから両者は連動しているのであり、それらの時間的流れから外れて育った自閉症児は、外部世界を空間的な枠組みにもとづいて捉えるようになったのではないだろうか。聾児の場合も、言語使用の不自由さのために、まわりの人との共同的な世界への参加が遅れることはよくあることなのである。
《感想》
・ここでは、外部世界を空間的な枠組みで捉えようとするか、時間的な展開の中で捉えようとするか、という問題が提起されている。3→9→7という順番で提示された数字を、健常児は。ほとんど「時間的な展開」通りに「397」と再生するが、自閉症児や聾児は「空間的な枠組み」を重視して「973」と再生することが多い、という実験結果はたいへん興味深い。外部世界を空間的な枠組みで捉えようとする傾向は、自閉症児《特有》ではなく、外部世界を聴覚的(時間的)に認知することが困難である聾児にも共通しているということが「実証」されたということである。つまり、自閉症児は「聴覚が正常」(聞こえている)であるにもかかわらず、聾児のような「捉え方」をしているのである。なぜだろうか。著者は「自閉症児も聾児も、発達の初期に音声言語の影響を受けにくい世界で育ったために、外部からの刺激を時間的に捉えることは少なくなり、結果的に空間的な枠組みのほうを重視した捉え方をするようになったとも考えられる」と述べている。その通りだと、私も思う。聾児は「聞こえない」ことが原因で、音声言語の影響を受けにくい世界で育った。自閉症児は、「人の発する音声を回避する」(聴覚過敏があるかもしれない)ことが原因で、あるいは、音声言語の影響が受けにくい「環境」の中で育ったために、外部からの刺激を時間的に捉えることが少なくなったのである。それが《結論》なのだが、著者は、さらに「しかしこのことは、自閉症児の孤独なこころのあり方が外部世界の空間的な構造の重視につながったという可能性を打ち消すものではない」と言って、「自閉症児の孤独なこころのあり方」などという《特有》の問題にこだわっている。以後「音声言語も、人々が出来事に参加する中でコミュニケーションの必要から生まれたものである。だから両者は連動しているのであり、それらの時間的流れから外れて育った自閉症児は、外部世界を空間的な枠組みにもとづいて捉えるようになったのではないだろうか」と述べられているが、《だから両者は連動しているのであり》の両者とは「何」と「何」なのか、私には判然としなかった。
・しかし、ここでは、「自閉症児の問題」が、「自閉症児《だけの》問題ではない」ということが《実証》されている、という点できわめて有益であった。(2015.12.25)