梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・22

【なぜ遊べないのか】
《要約》
・自閉症児は、言葉をその意味と結びつけるうえでもトラブルを起こしやすい。このことは、自閉症児がうまく遊べないことと深く係わっている
・砂場遊びでは、砂をご飯に「見立てる」、ごっこ遊びでは、「お父さん」「お母さん」の意味。役割を「演じる」ことができなければ、遊びは成立しない。
・自閉症児はこのような自由な発想をもちにくい。その理由は、「見立て遊び」や「ごっご遊び」が、言葉や概念と共通した次のような構造をもつからである。
・言語学者ソシュールは、記号というものの成り立ちを説明するのに、能記(意味するもの「シニフィアン」)と所記(意味されるもの「シニフィエ」)という概念を利用した。実物の「イヌ」は所記であり、「犬」という記号は能記である。イヌを表すものは、「イヌ」でなくとも「ワンワン」でも「DOG」でもよい。所記のほうも実物でなくても、オモチャのイヌでもこの関係は成り立つのである。だから能記と所記は一対一に対応していない。両者はお互いに似た特質をもっていなくてもかまわないのである。能記と所記は絶対的な結びつきはなくて、社会的な約束事として成立した関係なのである。このような能記と所記の関係は、「見立て遊び」や「ごっこ遊び」にもあてはまる。
・スイスの発達心理学者ピアジェは、このソシュールの理論を遊びの構造分析に利用して、「砂場遊び」で使う容器の中の砂を能記、本物のご飯を所記と考えた。ご飯の能記は、すなでなくても小石でもよい。このように、私たちは目の前の世界を「見立て」や「つもり」を通して見つめることができるので、人々と共感的な世界に旅立つことができるようになったのである。
・自閉症児は、能記と所記の関係をしっかり把握していないために、遊びが発展しにくいだけでなく、言語の世界でもよくトラブルを起こすことになる。言葉とそれが表す対象は一対一には対応していないのだが、そのような柔軟な関係を飲み込みにくいようである。
・自閉症のある男の子はある日、近所の子が母親のことを「おばさん」と呼ぶのを聞いて、「これはお母さんだ」と怒ったとのことである。(玉井収介「自閉症」講談社新書など)
・自閉症児の教育の世界では、物の呼び名を指導者の間で統一しておくべきだと唱えられている。彼らにとってわかりやすい一対一の対応関係から出発して、物と名前の対応の基礎ができたところで徐々に複数の名前があることを指導していくべきだろう。
《感想》
・ここでは、①自閉症児は「言葉」(能記)と「実物」(所記)が「一対一対応」しないと混乱する。②生活や遊びの場面で、私たちは「言葉」と「実物」を完全に「一対一対応」させているわけではない。③そこで、自閉症児は「見立て遊び」や「ごっこ遊び」にスムーズに参加することができない。というようなことが述べられている。
・節のタイトルが「なぜ遊べないか」とあるので、付言すれば、自閉症児は「遊べない」わけではない。感覚遊び、運動遊び、構成遊びなどの「一人遊び」は得意であろう。つまり、遊びの種類が1~2歳の段階に留まっているに過ぎない。コミュニケーションのレベルも1~2歳レベルに留まっているとすれば当然の結果なのである。健常な1~2歳児も自閉症児と《同様に》「見立て遊び」や「ごっこ遊び」はできないはずである。
・したがって、(言葉のやりとりで行う)「ごっこ遊び」ができないことも当然だが、「見立て遊び」ができないのはなぜだろうか。自閉症児自身の認知能力が未熟なためだろうか。
・私の独断と偏見によれば、それは「声」「表情」「動作」などによるノン・バーバルなコミュニケーションの「経験」が不足しているためである。その段階でも、すでに能記と所記の関係が生じていると思われるが、両者はまさに「一対一対応」していない。時と場面によって「千変万化」しているはずである。子どもと周囲の大人(親)は、「手探り」で「関わり合う」。両者の「思い」が一致すれば、そこから「共感」「信頼」「安心」が生まれる。著者は「能記と所記には絶対的な結びつきはなくて、社会的な約束事として成立した関係なのである」と述べているが、自閉症児には、その《社会的な約束事》を(0歳から1歳半頃までに)学ぶ経験が《致命的》に不足しているのである。
・幼児語の「まんま」(能記)は「食べ物」(所記)を意味する。「食べ物」は「ご飯」「くだもの」「お菓子」「ミルク」など、食べられるものであれば何でもよい、それが《社会的な約束事》なのである。しかし「まんま」ではなく「ゴハン」「パン」「バナナ」「ミルク」などという言葉を「一対一対応」で学んでしまえば「まんま」という概念は生まれない。同様に「あんよ」は「足」であり「歩くこと」、「くっく」は「靴」であり「靴下」でもある。子どもは、「幼児語」でまず、おおざっぱな概念を(トップ・ダウンのプロセスで)学び、次に一つ一つの事物を(分析的に)身につけていくのである。
・もし、親が「子どもに幼児語を使わせない」というような育児方針で育てれば、どのような結果になるだろうか。子どもは、つねに「コミュニケーションの手段」を奪われたまま成長していくことになりはしないか。幼児語の使用に限らず「声」「喃語」「ジャーゴン」「表情」「動作」などによるノン・バーバルなコミュニケーションの「経験不足」が、彼らの言語発達を1~2歳レベルに留まらせている要因だ、と私は思う。(2015.12.23)