梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・21

【出来事の基本構造】
《要約》
・出来事を表すのに必要な動詞や助詞の役割をうまく説明している文法理論がある。(フィルモアが提案した「格文法理論」)この理論にもとづいて、認知心理学者リンゼイとノーマンは出来事の構造を図式的に表現している。(ノーマン「情報処理心理学入門Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」サイエンス社)
◆「行為」→時(右方向)、「行為」→行為者(左方向)、「行為」→受け手(右上方向)
「行為」→対象(左上方向)、「行為」→道具(右下方向)、「行為」→場所(左下方向) 「行為」→その他(下方向)
・この図式では、出来事の中心に行為がきて、そこから行為者・対象・場所などの矢印が出ている。たとえば、行為が「拾った」ならば、誰が・何を・どこで、というように、出来事の構造が調べられ、それと並行して文も作られるわけである。頭の中にこのような輪郭をもった図式に相当するものをもっているために、私が「財布を拾ったんだ」と言えば、あなたからは「どこで?」とか「いつ?」という質問が飛び出してきて、会話へと発展していくことができるようになる。
・ところが、自閉症者には、このような図式がまだ育っておらず、また他の人のこころの中にそれがあることにも気づいていないようである。このことが、彼らの会話が発展しにくい理由となっているのだろう。
・なお、上記の図式は、以下の通り、日本語の格助詞に置き換えることができる。
◆行為→時(に)、行為→行為者(が・は)、行為→受け手(に)、行為→対象(を)
行為→道具(で)、行為→場所(で)
・このように、日本語の助詞は出来事の構造を表すうえで重要な役割を果たしているのである。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに、自閉症者には「出来事の構造」を表す「図式がまだ育っておらず、また他の人のこころの中にそれがあることにも気づいていないようである」という推測に過ぎない。しかし、その推測は、自閉症児・者に《限定》されるわけではなく、健常な2~3歳児、知的障害児に対しても「十分」言えることではないだろうか。
・大切なことは、健常幼児や知的障害児ががその後、順調に(あるいは自閉症児よりも)「出来事の構造」を理解し、相手のこころの中を「共感」できるのに、なぜ自閉症児だけが2~3歳レベルに留まった状態に「置かれる」のかという観点であり、それはひとえに「言葉をコミュニケーションの手段として使う機会が失われたことに因る」という認識である、と私は思う。
・いうまでもなく、コミュニケーションは、初めから「言葉」によって交わされるわけではない。「声」「表情」「動作」や「物のやりもらい」によって、「意味」だけでなく「感情」の交流(ノン・バーバルなコミュニケーション)が十分に行われた結果、それが「言葉」に結実化されていくのだから。したがって、そのノン・バーバルなコミュニケーションが不十分な段階で、他人との「対話」(共同作業)を抜きにした、いわば「独学」で身につけた「言葉」が「会話」に発展しないことは、当然の結果なのである。
・今、もし「コミュニケーションは、初めから言葉で行われる」(「初めに言葉ありき」)と勘違いしている親がいたとしたら、どうだろうか。彼らは、言葉以前に発せられる子どもからの情報(声・喃語・ジャーゴン・表情・動作など)を的確に受け止めて対応することが不十分になるかもしれない。あるいは、意図的に無視して「取り合わない」かもしれない。さらには、大人の正しい言葉だけを「教えようとする」かもしれない。コミュニケーションは、一人で(一方的に)行うものではない。だとすれば、子どもの側だけでなく周囲の大人(親など)の側の「育児態度」やコミュニケーション能力も「検証」しなければならないのではないか、と強く思った。
・もし、自閉症児の会話が「単語を羅列する」だけに留まっているとすれば、それはまだ言語(会話)能力が「1歳レベル」の段階にあるという《だけ》のことであり、こちらがそのレベルでの会話を「頻回」繰り返すことによって、何よりも「言葉(声)を交わし合う」ことの《楽しさ》、「こころが通じ合う」ことの《喜び》を、双方で「味わう」ことが最も大切ではないだろうか。(2015.12.22)