梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「・・・半分死んでいる」

 午後5時からNHKテレビ「篠田桃紅105歳を語る 衰えても日々新たなり」を観た。
ウィキペディア百科事典で「篠田桃紅」と検索すると、以下の記事が載っている。


〈篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年(大正2年)3月28日 - )は、日本の美術家・エッセイスト。映画監督の篠田正浩は従弟にあたる。
 来歴[編集]
日本の租借地だった関東州大連に生まれる[1]。5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれる。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。以後は日本で制作し各国で作品を発表している。
和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けている。〉


 番組はタイトル通り篠田桃紅氏の「語り」で構成されている。まず冒頭で彼女は、①長生きを売り物にしないことを強調する。次に、②人は結局《孤独》であり、誰かにわかってもらおうなんて甘えてはいけない(わかるはずがない)、日野原重明氏との対談では、③自分は全く無計画、その日暮らしに徹している生き様を披露する。105歳になった現在について、④自分は今「生と死の中間ぐらいに居て、半分死んでいる」と表現した。判断力が衰えていることは否めないが、老いることはマイナスではない。熟していくことだ。衰えたことを貪欲に利用したい。また、⑤私はどこにも所属しない。どこに所属しているかで戦争が生まれる。一番いけないこと、ばかばかしいことが戦争だ。戦いたい人はスポーツをやればよい。⑥私は昔の作品を観ない。過ぎたことを自慢してもしょうがない。大事なのは未来だ。増上寺で行われた105歳記念の展覧会については、⑦自分がものを作って発表するなんて、大声を上げて道路を走り回っているようなもの。芸術家なんて実に不遜な職業だ。謙虚にならなければいけない。何か力を与えられるのか?そして、結びは、⑧自分の身体が思い通りにならなくなった。そのことで私は自然の一部になった。私は自然のなりゆきに過ぎない。⑨「二河白道」、人の一生は火の河と氷の河の間にある、細い細い白い道を歩いて行くことだ。気を緩めればどちらかの河に落ち込んでしまう。⑩「桃紅李白薔薇紫 問著春風総不知」、桃は赤、李は白、薔薇は紫、どうしてその色になるのかを春の風にたずねても、「いっさい知らない」と答える。春の風は一色なのに花の色は皆それぞれ、人も同じ、百人いれば皆それぞれ、それぞれの色に咲きなさい、それぞれに生きなさいということ・・・と語るうちに番組は「終」となった。
 どの「語り」をとっても誠に感動的な内容であった。特に、④自分は今「生と死の中間ぐらいに居て、半分死んでいる」、⑧自分の身体が思い通りにならなくなった。そのことで私は自然の一部になった。私(の生死)は自然の成り行きにすぎない、という表現は74歳の、未熟な私にも十分ふさわしい。そしてまた、②人は結局、孤独であり、誰かにわかってもらおうなんて甘えてはいけないという叱責が身にしみる。さらにいえば、⑤一番いけないこと、ばかばかしいことが戦争だ、という価値観もまた、私が次世代に最も伝えたいことである。幸か不幸か、私は芸術家ではないので「不遜な職業」からは免れたかもしれない。とはいえ、駄文の山を築いていることはたしかであり、「大声をあげて道路を走り回っている」ことに変わりはない。
(2019.1.3)