梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・15

【遊べない子ども】
《要約》
・子どもは、早くから所有欲をもち、長い期間、他者とのぶつかり合いを経験して、充分自我を育てた後、三歳を過ぎた頃から他児との歩調を合わせて共同遊びができるようになる。それは、共感の世界が芽生える時期で、「こころの理論」が新しい局面でつくられるときである。
・しかし、共同遊びが始まる前に、子どもは長い間、一人遊びの時期を経験する。自閉症児は、この世界でも特徴ある行動を見せる。ここでは行動プログラムの問題と関連させながら一人遊びの発展について考えてみることにする。
・子どもが最初に行う遊びは、反復的な遊びである。(積木を打ち鳴らす、オモチャを手にしたり落としたりを何十回も繰り返す)ピアジェが「循環反応」と呼んだもので、A⇔B(A→B→A→B→A・・・)のような図式で表されるだろう。これが行動プログラムの出発点で、誰でもこのような遊びを経験するのだが、やがてこの行動のサイクルに物を落とす方向を変えてみるというような変化をつけるようになり、そのうちA→B→C・・・というように、閉じた回路の外に抜けて別の対象を探索するようになる。けれども、自閉症者の中には、その行動の中にこの閉じた回路を引きずっているものがよくいる。(目の前で手をヒラヒラさせたり、石ころを拾っては落とす行為を飽きもせずに何十回も繰り返したりする)行動の終点は別の行動と結合することなく再び始点に復帰して循環してしまうのである。
・面白いことに、このような行動は一人きりにされ、何もすることがないときに現れることが多い。自閉症者は、自らゴールを決め、行動を起こすことが苦手である。
・「自閉症の子どもにとって、何をしてもいい時間は、何をしたらいいか分からない時間なのです。」(ショプラーほか「自閉症の治療教育プログラム」)
・このプログラム(TEECHプログラム)では、自閉症児が何をしたらよいか気づくことができるようにわかりやすい環境を準備しているが、このような働きかけが途絶えたとき、自閉症者は退行ともいえる循環的な行動に戻ってしまいやすいようである。
・けれども多くの場合、自閉症者の行動も、A→B→C→D・・・というように次第に長い系列へと発展する。しかし、そのつながりは固定していて行き先が一つしかないことが多い。つまり、遊びがないのだ。
・自閉症児にはほんとうに遊びが発展しにくい。遊びとはもともと行き先不明の自由な発想から生まれる創造的な活動だからだ。
・粘土遊びの場面:知能障害の子どもたちは粘土玉でだんごを作ったり、おかずを作ったり、それらを皿の上に乗せて食べる真似をしたりして、一般の幼児の場合とあまり変わらない。けれども、自閉症児の場合は、もっぱらクッキー用の型どりの中に粘土を押し込んで花の形や犬の形をくりぬいているだけなのである。
・自閉症児はゴールがはっきりしていると実に正確に行動できることがある。けれども行き先不明の状態で、展開そのものを楽しむというようなことができない。だから、自閉症児は一般に、遊びの世界を受けつけにくいのである。
《感想》
・ここで、著者は、①自閉症児の遊びは「循環反応」(ピアジェ)による「反復遊び」の段階にとどまっていることが多い、②循環的な回路をぬけ出した後も、行動のつながりは固定していて、行き先(ゴール)が一つしかないことが多い、という特徴を述べている。
では、なぜ自閉症児の遊びは「反復遊び」の段階にとどまりやすいか、という点については述べられていない。しかし、著者は、「図らずも」その原因は、著者の仮説(自閉症の原因は脳の機能障害である)とは対立する「環境要因」によるものであることを露呈して(述べて)しまったように感じられた。それは「面白いことに、このような行動は一人きりにされ、何もすることがないときに現れることが多い。」という一文に示されている。私の独断・偏見によれば、「循環反応」による「反復遊び」は《誰にでも》あった。(大人に成長した後でも、「クセ」もしくは「無意識な行動」としてしばしば現れる。たとえば「ビンボーゆすり」「爪噛み」、その他のルーティーン)。通常は、その中に「誰か」が介入して反復遊びの「回路」からぬけ出すことができるが、自閉症児の場合は「一人きりにされ」ることが多く、いつまでもその状態に「とどまる」ことを余儀なくされている、と考えられる。以後「反復遊び」は、様子を変えて「常同行動」へと発展する。そのことは、動物園の檻に収容されたチーター、ライオン等の「行動」でも例証できる。檻の中を行ったり来たりする行動は、野生という「環境」では《決して》見られないだろう。
・「自閉症の子どもにとって、何をしてもいい時間は、何をしたらいいか分からない時間なのです。」(ショプラーほか「自閉症の治療教育プログラム」)という指摘は「その通り」だとしても、それは彼が「自閉症児」だから、ではなく、「一人きりにされ」た(物心ともに周囲からの断絶状態に置かれ続けた)ために、行動の手がかりを見つけられないでいるに過ぎない。子どもが、「反復遊び」を卒業して「やがてこの行動のサイクルに物を落とす方向を変えてみるというような変化をつけるようになり、そのうちA→B→C・・・というように、閉じた回路の外に抜けて別の対象を探索するようになる」ためには、「一人きりにされない」こと(親という安全基地)が不可欠であり、そこで育まれた「安心感」「好奇心」が探索行動を可能にするのである。
・著者は、①自閉症者は、自らゴールを決め、行動を起こすことが苦手である。②自閉症者の行動も、A→B→C→D・・・というように次第に長い系列へと発展する。しかし、そのつながりは固定していて行き先が一つしかないことが多い。つまり、遊びがないのだ。③自閉症児にはほんとうに遊びが発展しにくい。遊びとはもともと行き先不明の自由な発想から生まれる創造的な活動だからだ、というように《断言》しているが、私は、自閉症児に最も欠けているものは「安心感」、そこから芽生える「好奇心」ではないか、と思っている。(2015.12.4)