梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・14

【こころの理論】
《要約》
・人のこころの内側を想像しながら行動することは、自閉症者にとって非常にむずかしいことなのである。
・私たちは、たえず他人のこころの内側まで判断しながら行動している。つまり、こころの法則のようなものに気づいていて、自分なりの「こころの理論」を構成している。ところが自閉症児は、かなり知的能力が高いものでも「こころの理論」らしきものをもっていない。(ウタ・フリス「自閉症の謎を解き明かす」東京書籍)
・バロン=コーエンという人が行った「アンとサリーの実験」という二つの人形を使った研究がある。まず、被験者の前で簡単な人形劇が演じられる。サリーがカゴの中にしまったビー玉を、彼女の留守中にアンが箱の中に隠してしまった。帰宅したサリーはどこを探すでしょう?という問題である。ほとんどの児童は、劇の中途で「意地悪なアン!」などと言って笑い、「サリーはカゴの中を探すに違いない」と確信をもって言い当てたが、自閉症の子どもだけは、知的レベルの高い場合でも、いまビー玉の入っている箱のほうを示したとのことである。彼らは、事実の結果を見ていただけでサリーのこころの中は見ていなかったのである。それは、アンのこころと、サリーのこころと、観客である自分のこころとが別々のものであることに気づいていないからだ。
・こころがわかるとは、その人の行動がどのような方向に向かい、どのような心づもりでいて、どのような知識内容をもっているかがわかることだ。
・相手のこころが一番よくわかるのは、欲求がぶつかり合ったとき、たとえばオモチャを取り合うときである。二人の行動のゴールはオモチャへと向かっていて、自分のこころも相手のこころもそこに投影されている。そこで今度は、相手に気づかれないうちにオモチャを手にしてしまえば、相手のこころの内容を自分のこころの内容と別の状態にしておける。このような場面を繰り返す中で、だんだん相手のこころを察するようになるのではないだろうか。
・自閉症児は超然としていて、他者とのぶつかり合いが少ない。障害を排して目標を到達しようとする中でこそ目的や手段が吟味され、行動プログラムが錬られるようになると思うのだが、この種の闘争本能が彼らには不足しているように思える。また、自閉症児は、このように策略家としての性質が乏しいので、嘘をついたり人をだますことがまったくできない。これも、相手のこころがみえていない証拠である。
・「こころの理論」が作られるのは、争いやだまし合いのような穏やかならぬ世界においてだけではないに違いない。母子の愛着行動や友達との共感の中で、お互いのこころが一つところに向かうときも、こころの状態についての感覚が芽生えてくると考えられる。しかし、闘争の中のほうがこころの内容は見えやすいようである。人がこころという見えにくいものに気づくためには、内側に少しばかりワイルドな部分をもっていることが必要なのかもしれない。
《感想》
・ここでは、自閉症児・者が、人(相手)のこころの内側を想像しながら行動することが非常にむずかしい、ということについて述べられている。
・「人は、欲求がぶつかりあったとき、相手のこころが一番よくわかる。しかし、自閉症児は超然としていて、他者とのぶつかりあいが少ない。闘争本能が不足しているように思える。その結果、「こころの理論」が構成されにくい」といったあたりが著者の「仮説」だと思われる。
・自閉症児・者が、人のこころの内側を想像できないということは、「事実」として肯けるが、私たちもまた「彼らのこころの内側を想像できない」という「事実」を見落としてはならない、と思う。著者は「母子の愛着行動や友達との共感の中で、お互いのこころが一つところに向かうときも、こころの状態についての感覚が芽生えてくると考えられる」と述べているが、それよりも「闘争の中のほうがこころの内容は見えやすいようである」という見解には同意できない。子どもはまず「母子の愛着行動」で「安心」「喜び」を共感、相手のこころを想像できるようになる方が先ではないだろうか。「乳幼児精神発達診断法」(津守真、稲毛教子・大日本図書株式会社)によれば、「玩具を取り合う」のは生後1歳3カ月以後であり、その前に、2カ月「あやすと、顔をみて笑う」、3カ月「気に入らないとは、むずかって怒る」、6カ月「母親が手をさしのべると、喜んで自分から体をのりだす」、7カ月「欲しい物が得られないと怒る」、10カ月「『いけません』というと、ちょっと手を引っ込めて親の顔をみる」、11カ月「物などを相手に渡す」といった行動で、すでに相手のこころの内側を十分に想像・理解していなければならないはずある。・また、著者は「(自閉症児は)障害を排して目標を到達しようとする中でこそ目的や手段が吟味され、行動プログラムが錬られるようになると思うのだが、この種の闘争本能が彼らには不足しているように思える。また、自閉症児は、このように策略家としての性質が乏しいので、嘘をついたり人をだますことがまったくできない。これも、相手のこころがみえていない証拠である」と述べているが、それが自閉症児自身の「脳疾患」に起因することを前提にしているとすれば、私は肯けない。私の独断・偏見によれば、自閉症児は「そのように育てられたから」「そのように」成ったのである。
・私の知る自閉症児の両親は、「いけません!」と子どもを叱らなくてすむように、あらかじめ、子どもがいたずらをしないように、散らかさないように、本棚の本を抜き出せないようにぎっしりと詰め込んだり、引き出しのすべてをロックしたり、テーブルによじ登れないようにイスを倒しておく等の工夫をした。その結果、子どもは(親との関わりを通して)「障害を排して目標を到達しようとする中で」「目的や手段を吟味」すること、「行動プログラム錬る」経験が著しく不足し、かつ、兄弟や友達との接触もほとんどないまま。闘争本能を自らの中に芽生えさせることができなかった。また、1歳半健診で「指さしをしない」ことを指摘され、2歳過ぎに「気持ちが通じ合えない」と言われたが、両親は「2歳児で気持ちを通じ合わせるなんて難しい」と思っていた。一方、8カ月頃から童謡・唱歌のCDを聞かせ、また「絵本の読み聞かせ」を頻回繰り返した。そして、3歳児健診では「自閉症スペクトラム」「軽度の知的障害」と診断されたのである。(2015.11.28)