梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

夏の思い出

  今日から学校は「夏休み」、現役時代は、1年中で1番「楽しい日」であった。(ちなみに、1番「憂鬱な日」は8月31日であった)
 〈夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬・・・〉という歌があるが、私の場合、思い出すのは「静岡」である。静岡には母方の実家があり、満州から引き揚げてきた私は、小学校入学時まで、幼児期をその実家で祖母とともに過ごした関係で、学齢期になっても「夏休み」は、ほとんど静岡に帰省していたからである。
 「静岡の夏」の「思い出」を綴った雑文は以下の通りである。


静岡市を流れる安倍川、その上に架かる安西橋の両側には、欄干がなかった。4~5メートルごとに石の柱は残っていたが、柱と柱をつなぐ「横棒」は鉄製のため、兵器工場に徴発されたのだろう。祖母は、病みあがりの私を乳母車に乗せて、その橋を注意深く渡り始めた。4歳の私が、生死をさまよった「疫痢」から辛うじて快復し、治療に使ったリンゲルの注射器を、河原に捨てに来た帰り道のことである。
真夏の炎天下、橋の上を通る人や車は、皆無だった。だが、ちょうど中間点に来たとき、向こうから、一人の少年が「跳んで」来るように見えた。少年の姿は、だんだん大きくなってくる。よく見ると、少年は「跳んで」いるのではなかった。松葉杖をついて、懸命に歩いていたのである。頭、顔、上半身、汗にまみれ、薄汚れた半ズボンの下には、膝から切断された右足がむきだしのまま、ぶら下がっていた。「戦争」ということばを聞いて、私が真っ先に思い浮かべる「原風景」である。
無言のまますれ違った少年は、今でも無言のまま、松葉杖をついて懸命に歩いているだろうか。


 「静岡の夏」の「思い出」は、それだけではない。海水浴では「袖師」「三保」「大浜公園」「乙女が浜」「御前崎」、市内では「駿府公園」内堀での「ヤゴ捕り」、浅間神社・賤機山の散策、羽鳥新田・藁科川(木枯らしの森)での川遊び、狐ヶ崎公園(池)での模型船大会、食べ物では、「おでん」「ばい貝」「アイスキャンディー」「桜エビかき揚げ」「露地トマト」「鰹の刺身」等々、数え上げればきりがない。ただ一つ、どうしても忘れられない「情景」がある。5歳頃だったろうか、祖母に連れられて私は「豆自動車公園」に向かっていた。「豆自動車公園」とは、蓄電池で走る幼児用自動車(アクセルボタンとハンドルだけの装備、赤・緑・黄色などペンキ単色塗装・一人乗り)が5~6台置いてある、空き地(地面はコンクリート、周囲は木製の柵があるだけ)のことである。座席に腰掛け足でボタンを踏むだけで走り出す自動車は、当時の私にとって「存外の魅力」であり、その公園は、今で言えば「ディズニーランド」のように輝いて見えた。1回の利用料金が10円だったかどうか、いずれにせよ、有料のため祖母同伴でなければ行けない。ある夏の日、祖母は日傘を差し、私は帽子をかぶって炎天下の砂利道を、「豆自動車公園」に向かって歩いていた。道の両側は民家が並んでいる、10メートル置きぐらいに電信柱が立っている。その一本の傍らに「若い娘」(私にとってはお姉さん)が立っていた。白いブラウスに膝下までのスカート、下駄履きという姿である。歩きながら様子を見ていると、どうもおかしい。子ども心に「何かが変だ」と感じながら、彼女の前を通り過ぎた。そして10メートルほど行き過ぎた所であろうか、背後で「異様な」物音がした。彼女は、電柱を支えるワイヤロープに掴まりながら、崩れるように地面(の水溜まり)に倒れ込んだ。むき出しになったふくらはぎには、水溜まりの泥がべっとりと付着している。すぐに、どこかから中年男性(私にとってはおじさん)がやってきて、彼女の顔をのぞき込んでいた。「何か恐ろしいことが起こったに違いない」そう感じて、おそるおそる祖母の様子を窺うと、彼女は全く無表情に「見るとよしな(見てはいけない)。うつるから」と言いながら、私の手をぐいぐいと引っ張って、その場から一刻も早く立ち去ろうとする。「あの、おねえさん、どうしたの?」という私の問いかけに、祖母は一切答えようとはしなかった。その後の「豆自動車公園」でも二人の表情は「こわばり」、そこそこに退出したことは言うまでもない。以来、その日の出来事、「情景」は私と祖母の「胸の内」に秘められ、明らかにされることはなかった。(2008.7.19)