梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「枕草子」・《翁丸の物語》

「枕草子」といえば「春はあけぼの」(第一段)が頭に浮かぶが、私にとっては「上にさぶらふ御猫は」(第九段)の方がおもしろい。その要旨は以下の通りである。〈天皇に飼われている猫は五位という位をいただいて、たいそうかわいらしかった。名前を「命婦のおとど」という。あるとき、その猫が縁側に寝ていたので、世話係の「馬の命婦」が、「まあ、いけません。奥へ入りなさい」と呼んだが応じない。そこで、「馬の命婦」は、「翁丸よ、どこにいる? 命婦のおとどに食いつきなさい」と、飼い犬をけしかけた。「翁丸」とは、犬の名前である。「翁丸」は、命令されたので、「命婦のおとど」に飛びかかる。「命婦のおとど」は、驚いて、御簾の中に逃げ込んだ。ちょうどその時、天皇が朝餉に現れ、その様子を御覧になってびっくり仰天、猫を懐に入れて「翁丸はわるいやつだ。懲らしめて、犬島へ追放せよ、今すぐに」とおっしゃった。人々は「翁丸」を捕まえようとして大騒ぎ、やがて、どこかへ追放してしまった。「こんなことがなければ、翁丸も元気でいられたろうに」と人々は寂しがっていたが、三、四日後の昼、犬がひどく大声を上げているのが聞こえた。まもなく掃除婦が走ってきて「大変です。蔵人が二人、犬を殴打しています。死んでしまうでしょう。追放した犬が戻ってきたということです」という。「やめなさい」と言うと、鳴き声はやんだが「死んだので捨ててしまった」とのこと、かわいそうなことであった。その日の夕方、たいそう体が腫れて、醜い恰好の犬が、ぶるぶる震えながら歩き回っているのが見えた。「翁丸」と呼んでみたが、反応がない。翁丸をよく知っている右近を呼んで確かめたが、「翁丸ではないようだ」とのこと、暗くなって、その犬に食べ物を食べさせたが食べなかった。翌朝、その犬が柱のところにうずくまっているので「かわいそうに。昨日は翁丸をひどく打った。死んでしまったそうだが、どんなものに生まれ変わったのでしょう。さびしかったろうに」と言うと、犬はぶるぶるとふるえて、涙をぽたぽたと落とした。驚いて「それでは、おまえは翁丸か」と言うと、ひれ伏してひどく鳴く。やっぱりこの犬は翁丸だったのだ。皆が大騒ぎするのを天皇も聞きつけて現れ「驚いたことに、犬どもにもこのような人間の心があるのだなあ」と微笑まれる。かくて翁丸は、天皇のお咎めも解け、元通りの身の上となった〉(参考「枕草子」・西谷元夫・友朋社・1995年)。この話の眼目は、「犬畜生にも五分の魂」といったあたりにあるようだが、私が面白かったのは、猫「命婦のおとど」と、犬「翁丸」のコントラストである。この話、もともと悪いのは猫の方である。彼女は、日当たりのよい縁側で惰眠をむさぼっていた。しかも世話係の命令に従わなかったのである。従ったのは犬の方、彼は忠実に、猫に飛びかかった(が、決して傷つけてはいない)。猫は、いかにも虐められた振りをして天皇に助けを求める。自分が、惰眠をむさぼり、命令を無視したことは「そっちのけ」、天皇もそのことに気づかない。結果、虐められたのは、(人間に)忠実な犬であった、という皮肉な展開・・・。清少納言が、どのような意図でこの物語を綴ったかは知るよしもないが、猫は女性、犬は男性の「典型」として描いたとすれば、いつの時代でも、その「人間模様」には、変わりがないようである。(2012.11.6)