梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

新「唯物論」

「唯物論」とは何か。フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、以下のように説明されている。〈唯物論は、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。物理主義、ともいう。対語は唯心論〉。
 ただ、私が思うのは、そんな高尚なことではない。私たちの生活(人生)にとって、大切なことは「物」なのか、「心」なのか、という一点である。例えば、私たちにとって必要不可欠な「水」、今や「水道水」を直接口にする人は少なくなった。「水道水」よりも、コンビニで売られているペットボトル入りの「天然水(とやら)」を尊重する「心」とは、どんな代物なのだろうか。より清潔、より安全、より便利な「物」を求めて、経済大国・ニッポンの「物欲」(心)は、とどまるところを知らないようである。小説「桜の森の満開の下」(坂口安吾)に登場する山賊の女房(貴族出身・夫は山賊に殺されたが、寄らば大樹の陰、ちゃっかりと山賊の女房に納まった)は、ありとあらゆる都の宝物を山賊に略奪させ、夜な夜な、それらを手に取り観賞して楽しんだ。だが、それだけでは飽き足りず、今度は「人間の生首」を所望する。女房の「美しさ」に酔いしれている山賊は、今日は貴公子、今日は令嬢、今日は高僧と「殺生」を重ね、女房の希望(物欲)を叶えるというお話である。その風景は、経済大国・ニッポンの様相に「瓜二つ」、もはや「物」がすべて、「物」がなければ生きていけない、「物」によってしか「心」は安定しない。例えば、「携帯電話」。それが「命の次に大事だ」という若者はめずらしくないそうである。身の回りに「清潔」で「安全」、「便利」、さらには「お宝」と称する物、物、物を侍らせ、整理し、管理することが「心の安定」、充実、喜びをもたらしているに違いない。なんとも「さもしい話」ではないだろうか。たしかに、「心」(意気)だけで生きていくことはできない。だが、私たちは、生きていくのに必要な「物」だけで満足すべきではないだろうか。前掲の百科事典には以下のような解説(通念としての「唯物論」)もあった。〈唯物論の土壌からマルクス主義が生まれた歴史もあり、ヨーロッパ(イタリアなど)やアメリカの人々の多くや、日本の伝統的な人々の中には、「唯物論 即イコール マルクス主義」あるいは「唯物論=社会主義」ととらえ、唯物論=“資本主義陣営の敵”、であるかのような反応を示すことが少なからずある。しかし、論理的に検討すれば、唯物論とマルクス主義・社会主義は必ずしも同一ではなく、「唯物論かつ社会主義者もいれば、「唯物論かつ資本主義者」もいる〉。さだめし、経済大国・ニッポンの実態は。この「唯物論かつ資本主義者」たちで占められているに違いない。ただし、その「唯物論」は『ユイブツロン』ではなく『タダモノロン』と読んだ方がよさそうである。
(2010.2.2)