梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)

 小林一茶は「めでたさも中位なりおらが春」と詠んだが、私の春はめでたくともなんともない。さだめし「めでたさも面白くもなくおらが春」といったところか。とりわけ、今年の正月は、意欲が湧かない。なぜだろうか。それは私が「老いた」からである。平知盛は「見るべきは見つ」と言って、海に飛び込んだそうだが、私もまた同じ、違うのは、海に飛び込むこともできずに、ただウロウロと俗世をさまよっている点であろうか。そのような姿を「老醜」という。意欲もなく、役にも立たず、ただ息をしているだけ、そんな連中がウヨウヨしているのが「高齢化社会」の特徴かもしれない。昔の人は偉かった。年老いて、おのれの無力を悟ったとき、「ここらが潮時」と考えて、さっさと「あの世」へ旅立ったのだから・・・。映画「七人の侍」(黒澤明)の主将・志村喬は、野武士との闘いが終わった後、「また、生き残ったか!」と呟いたが、私は、闘うこともなしに生き残っているのだ。以上は、「老醜」の中でも、最も救いようがない「愚痴」という代物だが、まさに「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句が、ピッタリと当てはまる心境なのである。嗚呼・・・。「四苦八苦」の「四苦」とは「生老病死」、生まれる苦しみも、老いる苦しみも、十分に味わった。「神様、仏様、どうか私を《楽に》死なせて下さい」、そんな思いで、私は初詣に赴くのである。嗚呼・・・、南無阿弥陀仏!
(2013.1.2)