梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

寺山修司の作物二つ

 歌人・寺山脩司は「作詞家」でもあった。その作物に「浜昼顔」という佳作がある。詠って曰く「家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径 日ぐれ径 たった一度の恋なのと 泣いてた君は人の妻 ぼくは空ゆくちぎれ雲 ここはさい涯北の町 北の町 ひとり旅立つ思い出に 旅行鞄につめてきた 浜昼顔よいつまでも 枯れるなぼくの愛の花 愛の花」。なるほど、一語として無駄がない。まさに歌人が描く「不倫の世界」、現実とはうらはらに、どこまでも「さわやか」で「澄みきった」景色ではないか。寺山は幼くして父と死別(父は戦死)、母とも長い間(成人するまで)別居生活を余儀なくされたのだから、「家のない子」の心情を詠いあげることは、文字通り「自家薬籠中」の「得意技」であることに間違いはない。それにしても、まだ未成熟、くちばしの黄色い小僧っ子の「ぼく」が、豊満で油ののりきった「中年増」を「きみ」と呼ぶなんぞは十年早い。いやいや、「たった一度の恋」などと、泣き濡れるところを見れば、この「人妻」、「この世の花」もどきの「幼妻」かもしれない。さすれば、「ぼく」の同級生か・・・。いずれにせよ、「(流行)歌は三分間のドラマ」、作曲家・古賀政男、歌手・五木ひろしの「協力」(演出)もあって、たいそう鮮やかな(心に響く)作物に仕上がっていた、と私は思う。とりわけ寺山同様、「家のない子」であった私自身にとっては、「ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径」といったフレーズは、まさに「殺し文句」、ただ頭を垂れて「納得」してしまうのである。他方、寺山には「時には母のないい子のように」という作物もある。詠って曰く「時には母のない子のように だまって海を見つめていたい 時には母のない子のように ひとりで旅に出てみたい だけど心はすぐわかる 母のない子になったなら だれにも愛を話せない 時には母のない子のように 長い手紙を書いてみたい 時には母のない子のように 大きな声で叫んでみたい だけど心はすぐわかる 母のない子になったなら だれにも愛を話せない」。本当にそうだろうか。本当に寺山は「母のない子」の「心はすぐわかる」のだろうか。事実として「母のない子」であった私自身の率直な感想では、「母のない子になったなら だれにも愛を話せない」のは、その通り「真実」である。でも、そのことは「だまって海を見つめ」たり、「ひとりで旅に出て」みたり、「長い手紙を書いて」みたり、「大きな声で叫んで」みたりすることとは、必ずしも(いや絶対に)結びつかないのである。「母のない子」が「愛を話せない」のはなぜか。歌心を削ぐようで気が引けるが、「母のない子」は(少なくとも私自身は)は、「だれも愛することができない」のである。「愛」とは「相手を必要と感じる心」だが、子どもにとって最も必要な「母」が「ない」(無)ということはどういうことか。いつでも、どこでも、その「喪失感」「空虚感」「不満感」から逃れることはできない、言い換えれば、つねに「心が満たされることはない」ということである。その心は、海を見つめても、ひとりで旅に出ても、長い手紙を書いても、大きな声でさけんでも、決して「満たされること」はない。そしてまた「淋しくも、悲しくもない」のである。その荒涼とした「孤独感」、無味乾燥な心象世界を、歌人・寺山修司はどれほど「わかって」いたか。加えて、その「偏った」「独りよがり」な「心」を引きずったまま「大人」になりすましている、私のような人物もいるということを知っていたか。というわけで、「時には母のない子のように」(作曲・田中未知、唄・カルメン・マキ)という作物は「月並み」な「凡作」に過ぎない、というのが私の「偏見」なのである。(2010.2.16)