梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症」への《挑戦》・10

 ④「対話」(言葉のやりとり)をする。
 「自閉症」の定義の中に、第二の特徴として「言葉の発達の遅れ」が挙げられている。かつては、それをまず一次的な障害として考えられたこともあるほど、周囲には目立つ(気になる)特徴である。それは、要するに「言葉が通じない」(コミュニケーションの障害)という問題に帰結するが、気持ちが通じないから言葉が通じないのか、言葉が通じないから気持ちが通じないのかは、専門家の間でも見解が分かれるようだ。「初めに言葉ありき」とは新約聖書の言葉だが、本当にそうだろうか。言葉がなければ周囲の事物を正しく認識することができない、相手の心情を理解することもできない、という意味だとすれば、それは《誤りだ》と私は思う。言葉は認識や表現の「過程」で用いられる媒体に過ぎない。言葉がなくても(言葉が通じなくても)、「見ればわかる」のである。事実、「自閉症」と呼ばれる人たちは「見て理解する」、視覚優位型の認識をしているケースが多い。私たちもまた、外国映画を字幕なしで見れば、そのような見方をせざるを得なくなるのである。登場人物の「対話」を理解できないのでよくわからない。しかし「全くわからない」ということはないのである。「自閉症」と呼ばれる人たちの多くは、多分、そのような状態におかれているのではないか、と私は想像する。
したがって、相手と「対話」(言葉のやりとり)をするためには、まず相手の「言葉の遅れ」の実態を的確に把握することが必要になる。①全く声を発しない、②声は出すが言葉にならない、③一語文(単語)で話す(名詞で話す、形容詞で話す、動詞で話す、間投詞で話す)、④二語文(句)で話す、⑤三語文以上(多語文)で話す。⑥普通に話す(日常会話に支障はない)。同時に、こちらの言葉をどの程度理解できるか、を把握することが重要である。①全くわからない、②声の調子(怒っている、励ましている、ほめている等)はわかる、③単語で話しかければわかる、④句で話しかければわかる、⑤文で話しかけてもわかる、⑥長文の話しかけでもわかる。
 多くの場合、こちらが相手の実態を的確に把握していないため、双方の「対話」が成り立たない。その結果、相手は「言葉の発達の遅れ」があると「見なされて」いるのではないか。大切なことは、相手の実態に合わせて、(こちらが)「話しかける」(対話を始める)ことである。
 相手の実態が①や②の場合には、こちらは「声のやりとり」を重視しなければならない。その方法は、乳幼児を相手にする場合と《原理》は変わらない。また「自閉症」の「言葉の発達の遅れ」はその辺りに端を発していると思われるので、以下、乳幼児を対象にした「声のやりとり」の方法について述べる。


◆生後1か月頃になると、乳児は「泣く」とき以外にも「声」を出すようになる。授乳後、満足して、気分がいいときなど、「アー、ウー」「オックン」など、いかにも「話をしている」様子に見受けられる。いわゆる「喃語」である。親は、この「喃語」に対して、《無条件に》応えなければならない。「そう、お話してるの」「オー、オー、そうなの」「おなかがいっぱいなの」「うれしいの」、乳児は(親の顔をじっと見ながら)その「声」を聞いて、それに応えるかのように、ますます「声」を出す。という状態になれば、「声のやりとり」の「第一歩」が始まったのである。この「やりとり」は、将来、子どもが「言葉を獲得」するための必須条件である。それを繰り返し重ねることによって、当初は、短かった発声も、「力強く、長く」なり、「ナンナンナンナンナー」「マンマンマンマンマー」などと、同じ「音」を繰り返したりする。親は、それを聞いたら、子どもの「発声」を、そのまま「オウム返し」のように応えなければならない。子どもは、その親の「声」を聞いて、自分が「どのような声をだしているか」に気づくからである。
 そうした「喃語のやりとり」を続けていると、子どもは、母音の他に、両唇音(マ、バ、パ)、前舌音(タ、ナ、ダ)、奥舌音(カ、ガ)など、唇や舌を使った複雑な「構音」もできるようになる。乳を飲むときに使う口内器官を、そのまま「発声・発音」に活用する。まだ、その「発声」に特別な意味はない。子どもは、自発的に「発音」の練習をしているのである。親は、この練習にも《無条件に》応じなければならない。子どもの「発音」をそのままマネして聞かせるのである。さらにまた、親の方から、「マンマンマン」「バンバンバン」「ナンナンナン」「タンタンタン」などという「声」を聞かせ、子どもが、そのマネをしようとするかどうか、観察する必要がある。その「やりとり」が、将来の「始語」(初語・一語文)につながるからである。
 子どもは1歳前後になると「ママ」「マンマ」などという「単語」を話しはじめ、次第に「ババ」「ネンネ」「ナイナイ」「バイバイ」などという「言葉」を使い分けられるようになるが、そのためには生後3か月以降ほぼ1年間、以上のような「声のやりとり」が必要・不可欠なのである。また、「声」は「意味の伝え合い」以上に、「気持ちを伝え合う」アイテムとして、極めて重要である。「喃語」は、徐々に「ジャーゴン」(意味不明なメチャクチャ言葉)に発展するが、その中には、子どもの様々な「気持ち」が込められている。特に、「アーア」「エッ」「ワーオ」などという「声」(語調)からは、明確な気持ちを読み取ることができるだろう。それらは、すでに「感動詞」の役割をはたしているのだから。
 親は、子どもの「ジャーゴン」を大切にしなければならない。その中から、「意味のある」言葉(いわゆる幼児語)が誕生するからである。親が「ジャーゴン」に応じず、大人の「標準語」だけで話しかけていると、子どもは、それに応じることができない。「やりとり」の手段を奪われ、自分の気持ちを十分に表現できなくなるかもしれない。そのために、フラストレーション(欲求不満)が高まり、過度なストレス(緊張感)が生まれるかもしれない。
 「自閉症児」(と呼ばれる子ども)の場合、以上の「声のやりとり」が十分に行われてきたか、を「徹底的に」検証する必要がある。「喃語はあったが、活発にならなかった」「言葉を話しはじめたが、消えてしまった」「(幼児語はなく)いきなり標準語を話しはじめた」「ジャーゴンが今でも続いている」「独り言は多いが、対話にならない」などという事例は、数多く見られるようだが、その原因が、子どもの側にあるのか、親の側にあるのか、(推測ではなく)「事実」にもとづいて究明しなければならない、と私は思う。


 かつての職場で、いつも決まって「ハーオエー」という声を発する中学生に出会った。修学旅行に引率した際、電車に乗り込むとすぐに「ハーオエー」と叫ぶ。乗客は「何事か?」と」注目する。降りようとする時もまた「ハーオエー」と叫ぶ。乗客は注目する。山道を歩きながら、彼の姿は見えないが「ハーオエー」という声だけが聞こえる。宿舎で夕食をいち早く食べ終わり、また「ハーオエー」と言う。彼はその声で「対話」をしていたのだ、と私は思う。電車の場面では「今、ボクはこの電車に乗ります。よろしくお願いします」「これからボクは降ります。皆さん、どうか楽しい御旅行を!」。山道の場面では「ヤッホー、みんな元気で歩いているか!、がんばれよ!」。食事の場面では「もうボクは食べ終わったぞ、早くしろよ」などという意味が込められていたに違いない。しかし、周囲の者はそのことに気づかなかった。ただ「奇声を発する」とだけ受けとめて、「静かに!」と制止するだけであった。その彼が一時、宿舎で行方不明になった。一同は、あわてて捜索したが、迷路のようなホテルの中で迷ったらしい。ひょっこりエレベーターの中から「無言」で現れた。どうして、あの、いつもの声を発しなかったのだろうか。彼の顔を見れば、表情は固くこわばっている。よほど、恐い思いをしたのだろう。声を出す気持ちのゆとりがなかったのだろう。日頃から、彼と「声のやりとり」を重ねていれば、もう少し早く救出できたのに、と私は心底から後悔・反省したのである。


 「自閉症」の「言葉の発達の遅れ」の中に《一本調子で話す》《紋切型の話し方》などが挙げられているが、その原因としては「声のやりとり」(声で気持ちを伝え合う)ことが不十分であったことが考えられる。したがって、相手の実態が、③以上の場合には、ことさら「語調」を強調して話しかけた方がよい。その語調を相手がマネすれば、時と場面に応じた「話し方」ができるようになるのではないだろうか。ともすれば、こちらの話し方の方が一本調子になっていないか、紋切型になっていないか。そのことに留意することが大切である。


 さて、相手との「対話」をどのように進めればよいか。「対話」とは《言葉のキャッチボール》のことである。それをスムーズに展開させるためには、また双方が楽しめるようになるためには、《ボール》に相当する物を準備するのがよい。たとえば、絵カード(鉄道、自動車、プロマイドなど)、文カード(四字熟語、俳句、ことわざカードなどが市販されている)、カルタ、百人一首などである。こちらと相手がそれらを媒体として「言葉のやりとり」をするのである。こちらが名前や文を読み上げて、相手が該当するカードを拾い手渡す。役割を交代して、相手が読みこちらが拾う。その活動は、物のやりとりをしながら、同時に「言葉のやりとり」をしているのである。それらの媒体は、いわば話題である。留意点としては、「正確さ」を求めないことである。相手が間違ってもよい。双方が「楽しい」気持ちを共有することが何よりも優先されなければならないからである。 
 双方が十分に楽しんだ後は、図鑑や新聞、カタログ、パンフレットなどを前にして「言葉のやりとり」をすればよい。次第に、媒体がなくても「自由」に会話ができるようになることをめざすのである。
 自由な会話の《原則》は、相手を困らせない、黙らせないことである。①相手を問い詰める、②相手をからかう、③相手を批判することは、厳に慎まなければならない。「冗談を言う」ことは許されるが、その前に相手の理解が不可欠である。そのことは、相手が誰であっても「社会常識」であろう。
 また、相手が《オウム返し》(エコラリア・反響言語とも言う)で応じる場合がある、そのこと自体は、何の問題もない。誰でも、幼児期には経験していることだからである。《オウム返し》は、「今、あなたはこのように話したのですね」という意味が含まれており、確認の証である。かつて日本の軍隊は、命令に対する「復唱」として《オウム返し》を推奨・強制したこともあった。しかし、意味もわからずに《オウム返し》をする場合はどうか。「あなたの言うことがわかりません、でも応えなければならないので、とりあえず復唱します」という気持ちが込められているかもしれない。あるいは「もう、そのお話は結構です、話題を変えましょう」という意味かもしれない。相手が《オウム返し》をしたら、こちらもマネて様子を見ることである。双方が言葉を繰り返して笑ってしまった、それが相手と対話する際のキーワード、キーセンテンスになってしまったなどという場合はそれでよい。しかし、相手が黙ってしまった、怒ってしまったというような場合には、「こちらの話しかけ方が悪かった」(相手の応えられないことを言ってしまった、相手の興味がないことを話題にしてしまった)と反省するべきであろう。


 福井大学教授・熊谷高幸氏は『自閉症からのメッセージ』(講談社新書・1993年)という著書の中(第4章・自閉症の言語世界)で、「なぜオウム返しをするのか」について記述している。その内容を私なりに要約すると、以下の通りである。 
◆《なぜオウム返しをするのか》(要約)
・自閉症児が「オウム返し」をするわけを知るには、言語の問題の中だけで考えず、行動の問題に戻って考えてみる必要がある。
・自閉症児には行動プログラムを立てる力があまり育っていない。ゴールを自分で定め、道筋をつくっていない。彼らは、意思決定者としての自分に気づいていないのである。
・だから、「どこに行くの?」と聞かれても、ゴールが明確となっていない。また「何を食べる?」と聞かれてもゴールを選べない。
・さらに、「みかん食べる?」というような具体的な質問に対してもイエス・ノーの答を出せない。健常な子どもが三歳頃のいわゆる「第一反抗期」によく言うような「イヤ」という言葉を、彼らはなかなか口にできないのである。
・行動プログラムというものは、自分の意図と他人の意図が衝突したり、自分の気持ちをまわりの人に意思表示する中で明確になり、強められるものである。だから、行動プログラム発達のためには、人々と共にいること、そして言葉を獲得することが欠かせない。言葉は人々が互いの行動プログラムを照らし合うために発生したが、次第にその働きは過去や未来にも及び、前節で考察したような出来事の分析装置となったと考えられる。
・以上の理由で、自閉症児は、質問者が自分のことを意思決定者として見つめ、行動のおもむく先を尋ねているのだと理解できない。そこで、表層の音のつながりだけを再現して。その場を切り抜けようとしているのだ。
・このような子どもには、まず、複数の物(または事柄)の中から一つを選ぶことから指導していく必要がある。目に見えやすい形で選択肢を用意し、どちらがいいか、または正しいかを聞き、取るか、指さすか、または言葉で答えさせ、その答を確認していく。こうして、自分の意志を人に伝えられるようになっていくことが、オウム返しを解消するための前提となると考えられる。他方、「みかん食べる?」に対して「ミカンタベルヨ」と言わせる、会話のルールに合わせた技術的な方法は、言葉の表面だけを捉えさせるだけで、その答は、本当に彼自身の意思となっているかどうかは疑わしい。このような方法がうまくいくのは、すでにその自閉症児自身が行動の方向を自覚しつつある場合なのではないだろうか。
◆以上に対する、私の感想は以下の通りである。
・ここでは、自閉症児がオウム返しをするわけについて、「質問者が自分のことを意思決定者として見つめ、行動のおもむく先を尋ねているのだと理解できない。そこで、表層の音のつながりだけを再現して。その場を切り抜けようとしているのだ」と述べているが、それでは自閉症児はなぜ質問者の意図を理解できないのだろうか。
・まず、「何」「どこ」「いつ」「誰」などという《疑問詞》の意味を正しく理解されているか、またそれらを使った《疑問文》で自分が「尋ねられている」という(立場の)関係を理解しているか。これまでに、《質問→答える》という「やりとり」をどの程度、経験してきたか、という観点が必要だ、と私は思う。「オウム返し」は、「その場を切り抜けようとしている」場合も「ない」とは言えないが、相手の言葉を「確かめる」「模倣する」ためにも使われることの方が多いのではないだろうか。1~2歳の幼児には誰にでも見られる言語活動である。大切なことは、自閉症児の言語発達が「まだそのままの段階に留まっている」と認識すること、だと思う。
・著者はまた「行動プログラムの発達のためには、人々と共にいること、そして言葉を獲得することが欠かせない」とも述べているが、人々と共にいて、言葉を獲得するためには何が欠かせないか、ということについては言及していない。私の独断・偏見では、それは言葉以前の、ノン・バーバルなコミュニケーションの経験である。子どもはその中でイエス・ノーの気持ち、「何?」という問いかけの気持ちを体験し、また、相手の模倣をすることによって言葉を獲得していくと考えられる。「オウム返し」の段階に留まっている自閉症児は、「相手の模倣」という行動は学んでいるが、相手と共にいることの「楽しさ」「喜び」を味わうことが不足しているのだろう。相手が登場するのを見て「誰?」と思い、差し出された物を見て「何?」と思うのが自然な姿なのに、彼はそれ以前に、その場面を「回避」してしまうからである。通常、子どもは2歳頃になると、さかんに何?と問いかける。3歳を過ぎると「どうして?」「なぜ?」と問いかける。   
・自閉症児には、そうした「質疑ー応答」のやりとりが《致命的に》不足していると思われる。著者は「まず、複数の物(または事柄)の中から一つを選ぶことから指導していく必要がある。目に見えやすい形で選択肢を用意し、どちらがいいか、または正しいかを聞き、取るか、指さすか、または言葉で答えさせ、その答を確認していく。こうして、自分の意志を人に伝えられるようになっていくことが、オウム返しを解消するための前提となると考えられる」と述べている。それも一つの有効な方法だと思われるが、さらに指導者と自閉症児の立場・役割を「交換する」ことが重要である。自閉症児を「受け手」の立場に置いたままにするだけでなく、相手に対しても「問いかける」役割を与え、その応答の「正誤」を「判断」(意思決定)できるようにすることも加える必要があるのではないか、と私は思った。


 最後に、「対話」(言葉のやりとり)をする上で、最も重要と思われる二点について述べる。
 一点は、こちらの声の大きさ、高さ、スピードに留意することである。相手にとって心地よい、わかりやすい話しかけをしなければならない。今、自分の話しかけを、相手はどのような気持ちで聞いているかを絶えずフィードバックすることが大切である。「わかった」「通じ合えた」という気持ちのつながりが、双方を安心させ、楽しくするのである。大きすぎる声、かん高い声、早口は禁物である。「ささやき声」から始めるのがよいという専門家もいる。(石田遊子『「自閉」をひらく』・つくも幼児教室編・風媒社・1980年) こちらは、つねに相手が「わかる」(心地よい)言葉で話しかける技術を体得しなければならない。それが《鉄則》である。
 二点は、お互いにハイ、その通りです、オナジです、ナルホドなどという《同意》(YES)とイイエ、チガウ、イヤダ、ワカラナイなどという《不同意》(NO)、さらには「何?、誰?、いつ?、どこ?」という《疑問(問いかけ)》の《表現》を交わし合えるようにすることである。そして、お互いに相手の言うことを「わかり合える」ようにすることである。そのことは、「対話」の必要・十分条件である。相手の言うことがわかれば、「ハイ」「イイエ」だけで、「対話」は成立する。発声・発語ができなくても、肯けばよい。手を挙げればよい。首を振ればよい。手を振ればよい。わからないときは「エッ?」と尻上がりに発声すればよい。声が出なければ、相手を覗いて目で問いかければよい。「対話」は、言葉だけで行うものではないからである。《気持ちが通じ合えばよい》、そのことをめざして「決してあきらめてはいけない」と私は思う。
(2016.4.30)