梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症」への《挑戦》・7

⑷ 相手との「接し方」・Ⅱ
 これからが、いよいよ正念場である。 
 まず初めに、相手とこちらの関係を見直し(振り返り)、《機は熟しているか》を判断することが大切である。①相手はこちらを見るか、②近づいて来るか、③視線を合わせるか、④こちらのマネをしようとするか、そして何よりもまず、⑤相手はこちらと「一緒にいる」ことを心待ちにしているか、十分に楽しんでいるかを見極めなければならない。もし、すべての項目をクリアしていたら《機は熟している》のである。そして、自分もまた、⑥相手が来ることを心待ちにし、一緒にいることを「十分に楽しい」と感じなければならない。
《基本的な方針》 
・「自閉症」という《問題》と、正面から向き合うことが基本である。その問題とは、すでに述べたように「対人関係を形成する」ことである。そして、これまでの経過の中で、相手はこちらに注目し、近づき、マネをしようとし始めている。対人関係は形成されつつあるということである。だとすれば、相手とこちらの気持ちが《通じ合う》ようにすること、その《通じ合い》をさらに強化して、相互の気持ちを共有・共感できるようにすること、が基本的な目標になる。言い換えれば、いわゆる「こころの理論」を構築することであり、相手がこちらの「こころ」を読み取れるようにすることである。そのためには、まず、こちらが相手の「こころ」を共感・理解しなければならないことは、言うまでもない。・《通じ合う》気持ちは、不安・緊張から安心へ、安心から好奇心へ、好奇心が面白さへ、面白さから嬉しさ・喜びへ、喜びから淋しさへ、淋しさから悲しみへと拡がっていくことをめざす。同時に、相手を喜ばせる、共に喜び合うことを通して、自信、意欲、期待、愛着、希望、感動といった「心情」も育てたい。一方、相互の対立・葛藤を通して、怒り、憤り、不満、悔しさ、恥辱といった「感情」を引き起こし、それらをコントロールできるようにすること(自己統制)も不可欠である。要するに、「喜怒哀楽」の感情を豊かにし、そのことを「対人関係の形成」を図る《手段》とすることを基本とする。
・相手が「乳幼児」である場合については拙稿『「自閉症児」の育て方』で既述したので以下「学齢児以降」の場合について述べる。


①「豊かな表情」で接する
 人の表情は千差万別である。無表情な人もいれば豊かな人もいる。しかも、その表情は(鏡に映さなければ)自分ではわからない。また、人の気持ちは表情に現れる。こころに動きがなければ表情も動かない。「一瞬、固まった」「凍りついた」などと言われる表情は、不安・緊張・恐怖の現れである。「和らいだ」「穏やかな」などと言われる表情は、安心、安堵、愛着の現れである。したがって、その人の表情を見れば、こころの状態を察することができる。以下、二つの事例(私が見聞した実際の人間模様)を紹介する。


【事例・1】
 場所はある野球場の喫煙所。スーツにネクタイ姿の青年が煙草を吹かしている。肩からはカバンを架け、どこにでも見られるサラリーリーマン風の容貌であった。しかし、少し近寄ると、小声で何か呟いている。「独り言」が止まらないのである。そこに、中年の男性がやってきた。煙草を口にくわえて、ライターを探している様子、青年はすかさず「ライター!」と言って、自分のライターを男性の前に差し出した。男性は「ありがとう」と言って受け取ろうとした。しかし、青年は手渡すのではなく、男性の鼻の先で着火した。男性はやや戸惑いびっくりした様子で、その火に顔を近づけ煙草を吸った。そして、青年に黙ってお辞儀をした。少し離れてから、ズボンのポケットにある自分のライターを取り出し、眺めた。その時、ヘッドホンをした少年が体を揺すりながら、少し微笑んでその男性に声をかけた。何と言っているかはわからない、男性は少年に応えた。「そこで待って居なさい」。この間、青年と男性は一貫して《無表情》であった。
【事例・2】
 その野球場からの帰り道。観戦を終えた人たちが混雑しながら駅に向かって歩いている。その時、リュックサックを背負い、野球帽を被った青年の、やや大きめの声が聞こえた。「お父さん、ヤクルトの試合も見ますか」。しかし、誰に話しかけているのかわからない。青年は、何度も同じ言葉をくり返している。しばらくすると、その青年は、二、三人隔てた所を歩いている老紳士に話しかけていることがわかった。青年は「ねえ、お父さん・・・・」と執拗に話しかけるが、老紳士は応えない。終いに青年は「お父様!」「パパ!」などと呼びかけるようになった。でも老紳士は《無反応》を続け、青年の方を見ることは一度もなかった。やがて、二人は人混みに紛れ見えなくなった。


 この二つの事例を見聞して、私は、「自閉症者」と呼ばれる青年・成人とその家族たちが、今、どのような「接し方」をしているか、その可能性と問題点を学ぶことができた。
【事例・1】の青年は、ライターを探している男性の気持ちを察して、自分のライターを提供した。ネクタイを締め、きちんとスーツを着こなしていることからも、自分を含めて周囲の物事によく気がつく、という素晴らしさを持っている。それがこの青年の可能性だと思う。しかしまだ、相手の男性が「手渡してほしい」と思っていることまでは気づかない。一方、青年のサービスを拒まなかった男性の応じ方も素晴らしい。それは、自分の息子も「自閉症児」と呼ばれている、父親としての経験に因るものだろう。「ありがとう」と言って、一瞬、気持ちが《通じ合えた》のだが、そのことを「表情で伝える」(笑顔で応じる)余裕がなかったと私は思う。しかし、公衆の場で、そのような《やりとり》を自然に行った二人に拍手を送りたい気持ちでいっぱいになった。【事例・2】の青年は、野球観戦の興奮が冷めやらず、懸命に父親に話しかけている。そこには「面白かったね、また来ようね。ヤクルト戦も見たいなあ」という気持ちが込められていたかもしれない。父親もまたそのことは十分に察していたはずである。しかし、無表情・無反応な「接し方」を貫き通した。私も父親の気持ちがよくわかる。もし、笑顔で応えれば、息子の興奮はさらに高まり大騒ぎするかもしれない。周囲は驚くだろう。周囲に迷惑をかけたくない。だから今は「息子よ、申し訳ないが、今はお父さんは黙るしかないのだよ」と思っていたかもしれない。そして多分、周囲が家族だけになったとき、父子の対話が始まるに違いない。息子は喜びを現して父親に話しかける。しかし父親は応じられない。その結果、息子の気持ちは父親から離れていく。そうした状況をどうすればよいか、父親が応じられないという状況を作り出しているのは誰か。この青年もまた多くの可能性をもっている。しかし、その可能性が「自閉症」というレッテルによって「立ち枯れてしまう」ことがないよう、「あきらめてはいけない」と私は思う。


 「豊かな表情」とは、「和らいだ」「穏やかな」ものだけではない。無表情も含めて、時には険しく、冷たく、歪み、時には愁いを込め、また時には「破顔一笑」「満面の笑み」というように《千変万化》しなければならない。こちらは、その様子を相手に「見せる」ことが必要である。「泣き顔は見せたくない」ものだが、今はあえて「恥を忍んで」大げさに、表情を変化させることが大切なのだ。そこから、こちらの気持ちを相手が察することができるようになるために。相手が乳幼児であれば「にらめっこ」「いないいないいばあ」などの遊びも活用できるだろう。今は、それに匹敵する「おとなの遊び」を創意・工夫する時なのである。
(2016.4.25)