梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症」への《挑戦》・6

 ③相手からの「働きかけ」に応える
 子どもが激しく泣いいる。そんな場面はどこでも見られるが、親にとってはあまり嬉しくない出来事かもしれない。何か異変が起きたのかと心配することは当然である。しかし、思いあたることがないのに泣いている。しかも、泣きやまない。周囲から苦情が来ないか、親の育て方が悪いと抗議されないか、虐待しているのではと疑られやしないか。そして《親の方が泣きたいくらいだ》と絶望的になる。そうした事例は少なくないだろう。この時、留意しなければならない点は、親の気持ちが、子どもよりも「周囲」の方に向かっている、ということではないだろうか。私自身も教員時代(知的障害特別支援学校)、校外学習や散歩学習などの折りに、生徒からの「働きかけ」(を尊重したつもりで)どおりに、行き先を決め、いざ集合、帰校の段になって、「もっと向こうに行きたい」「まだ帰りたくない」と泣き叫ばれ、途方に暮れた経験がある。その場に居るのは私と生徒の二人だけ、たちまち周囲は人だかりとなり「どうした?」「何やってるんだ」という声が聞こえる。その方が気になって、生徒と向かい合って「やりとり」をする余裕がなかった。しかし、その責任は私にある。私の(生徒からの「働きかけ」を尊重したつもりの)「接し方」「かかわり方」がその事態を招いたのだから、と反省している。
 子どもは乳幼児期、泣くことによって周囲に「働きかける」。とりわけ、まだ言葉で訴えられない場合は、泣くことがコミュニケーションの重要な手段である。子どもは泣くことで《話している》のだ。親は、「わが子はすでにコミュニケーションの第一歩を踏み出した」と考えて、その泣き声から子どもの気持ち(意図)を感じ取らなければならない。周囲のことを気にしている場合ではないのである。自立心をやしなうために、思いあたることがない場合は、泣き疲れて眠るまで「放っておくのがよい」という専門家もいるようだが、それは「子どもが話しているのに、親は無視すべきだ」と言うことと同じである。子どもは、絶望して泣かなくなるだろう。そこからコミュニケーションの断絶状態が始まる、と言ってよい。「自閉症」と呼ばれる子どもたちは、「一度泣き出したら、なかなか泣き止まなかった」場合と「ほとんど泣くことがなく、おとなしく手がかからなかった」場合に分かれるかもしれない。しかしどちらの場合も、「自閉症」と呼ばれない、他の子どもたちにも頻繁に見られる事柄であり、《程度の差》に過ぎない、と私は思う。大切なことは、そうした事柄に対して、こちらがどのように接したか、どのような手を打ったか、を振り返ることである。後者の場合には、「働きかけ」が少なかった分だけ、親との「やりとり」(コミュニケーション)も乏しくなってしまったことは当然でろあろう。
学齢期以降になると、泣く頻度は激減する。自分の気持ちや意志を言葉で表現することができるようになるからである。同時に泣くという行為の意味も変容する。それまでは、訴えや怒り、憤りなどの感情表現だけだったものに、(情操にかかわる)淋しさ、哀しさ切なさ、さらには素晴らしさ、喜びの表現までが加わるのである。
 青年・成人期になると、特別な場合を除けば、人前で泣くことはほとんどない。しかし、泣く行為は、情緒を安定させ、体調を整える(自律神経を調整する)ためにも有効・有益だとされている。
 「自閉症」と呼ばれる子どもたちもまた、幼児期を過ぎ学齢期を迎えると「ほとんど泣かなくなる」ことが多いようである。青年・成人期も同様である。もし、泣くような場面が生じたとすれば、それを、こちら側への「働きかけ」だと考えて、大切に受けとめなければならないと、私は思う。
 相手からの「働きかけ」は、泣くことだけではない。笑いかける、話しかける、触わってくるなど《好意的》な「働きかけ」に対しては、それぞれの方法で《好意的》に応じればよい。中でも、幼児期「手をつなぐ」ことは大切である。危険防止のためよりもスキンシップ(手の温もりを感じ合う)の喜び(親近感・安心感)を味わうことが素晴らしいのである。相手が「おんぶ」や「抱っこ」をせがんだり、手をつなごうとしてきたら《無条件》に応じなければならない。最近ではベビーカーで移動することがあたりまえになっているが、それは拘束して輸送していることに他ならない、その分だけスキンシップが減り、相手との距離を拡げる結果になることを肝銘すべきである。              
 学齢期以降、青年期・成人期の場合には、握手、ダンス、抱擁などのスキンシップが有効であろう。相手がそれを求めてきた場合には、社会常識の範囲内で応じることが必要である。
 では反対に、にらみつける、怒鳴りつける、殴りかかるなど《攻撃的》な「働きかけ」に対してはどのように応じればよいか。また、いわゆる「パニック」などに対してどのように応じればばよいか。
 まず第一に、こちらの身を守ることが肝要である。相手を加害者という立場に追い込んではならない。また、自分が加害者になってはならないことも当然である。
 無視する、その場から離れることが原則だが、相手の行動を(できれば)制止することも許されるだろう。しかし、できることはそこまでである。
 第二に、相手の気持ちを鎮めることである。そのためには、こちらの気持ちを鎮めることの方が先である。お互いに人間同士、感情が高ぶることは否めない。しかし「つい、カッとなって」などということは、こちらがどのような立場であっても許されないことである。
第三に、相手がそのような「働きかけ」をするに到った経緯を振り返ることである。何が原因であったかを突き止めることである。多くの場合、こちらにとっては「何が何だかわからない」ということになるだろう。わかっていれば手が打てたはずだからである。しかし、これもまた多くの場合、そのことが《原因》なのである。つまり、相手がこちらを《攻撃する》動機が、こちらの側にあったにもかかわらず、そのことに気づいていない、「相手の側にある」とばかり思い込んでいる、言い換えれば双方の「(コミュニケーションの)断絶状態」が原因なのである。
 「パニック」は、①自分の思いが通らない、制止される、②嫌なことを無理強いされる、③恥ずかしい思いをさせられた(侮辱された)、など攻撃の対象が存在しており、それが直接当事者に向かう場合と、他の物品に向かう場合(八つ当たり)と、自分自身に向かう場合(自傷)に分けられるかもしれない。いずれも、その原因は「こちら側にあった」のである。さらに重要なのは、④「相手の気を引こうとする」場合があるということである。誰にも相手をしてもらえないで放置される、そうした淋しさ、虚しさを《自分は言葉で訴えられない》という憤りを爆発させたのかもしれない。《自分が暴れれば誰かが来てくれる》という期待があったかもしれない。よく言われるように、⑥「恐怖(外傷)体験を思い出した」という場合も考えられる。本人がそのように述べていることもあるので「信じる他はない」が、その根拠は判然としない。幻視、幻聴、妄想など「精神疾患」があるのだろうか。あるいは、体内の「内部感覚(の異常)」が、そのような症状を引き起こしているのだろうか。究明されなければならない課題である。
 以上、⑥の場合を除けば、「パニック」の原因は、すべて相手があり《こちら側の問題》だということになるのだが、現状では、ほとんど⑥のように《本人の側の問題》にされているように思われる。 
(2016.4.24)