梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症」への《挑戦》・5

 ②相手のマネをする。
 マネをすることは、古くは「まねぶ」であり「まなぶ(学ぶ)」の語源であるとも言われている。したがって学習は《マネをする》ことから始まる。親と子ども、教員と子ども、という関係の中で《マネをする》のは子どもの側である、と通常は考えられている。しかし「自閉症」と呼ばれる子どもたちの多くは、親や教員の《マネをする》ことが苦手である。お手本となる親や教員に注目しない。しかし、テレビのコマーシャル、や駅構内のアナウンスなどは、巧みに《マネをする》ことがある。なぜだろうか。その原因はよくわからない。直接、対面している相手からは、「回避しよう」という気持ちが強く働いて、相手を見る「気持ちのゆとり」(好奇心)がないのかもしれない。
 だとすれば、まず、こちらに対する「好奇心」を芽生えさせることが大切であろう。一緒にいる時間の中で、相手の「していること」を観察し、こちらも「同じこと」をするのである。たとえば、相手が咳をした。こちらも咳をする。相手が耳をふさいだ、こちらも耳をふさぐ。独り言を言った。こちらもそのマネをして言う。こちらが相手の行動を映し出す《鏡》の役割を演じるのである。そうしたことを繰り返すなかで、相手がこちらを《注目》するようになれば、成功である。ニッコリ微笑んで「そうだよ、マネしたんだよ」という気持ちを伝えればよい。
 しかし、そのことは口で言うほど簡単にはいかない。いくらこちらがマネをしても無反応で終わることが多いであろう。こちらが相手のマネをするのは、相手に好奇心が芽生え「こちらのマネををする」ようになることを期待しているからだ。そう自分に言い聞かせて、相手がこちらに注目するまであきらめてはいけないのである。「奥の手」としては、相手の嫌がることを「わざとやって」反応を見る、という方法もある。嫌がることには、《必ず》注目するからである。たとえば、電気掃除機の音を嫌がる場合、①音を出す、②嫌がって止めに「来る」、③また一瞬音を出す、④また止めに「来る」、しかし「来た」時には音は止まっている、⑤音を出す素振りをする、⑥音を出させまいとして、こちらの手を制止しに「来る」といった《やりとり》(有言・無言の対話)を繰り返しながら、その《やりとり》を双方が「楽しい」と感じられるようになるか・・・。 様々な試行錯誤を繰り返して、相手がこちらに《注目》し、《こちらのマネをしよう》という気持ちになれば、「自閉症」と呼ばれる子どもの問題の大半は改善されたことになる、と私は思う。
 「相手がこちらに注目し、マネをするようになる」ことをめざす《訓練》もある。その際、最も大切なことは行動ではなく、気持ちである。相手の、注目、マネは《自発的》に行われなければ、生活の場に般化されていかないからである。《訓練》として行う以上、注目し、マネすればご褒美がもらえる、という条件を付けることは理解できる。そのご褒美とは、実は「自分が喜ぶためではなく、相手の喜ぶ姿を見ることだ」ということに気づいた時、その《訓練》は成功するかもしれない。しかし、そのことも、口でいうほど簡単にはいかない。
 どの方法で、「こちらに注目し、マネすることができるようにするか」は、子どもの個性が千差万別であるように多種多様であってよい、と私は思う。大切なことは、その成功例を喜び合い、共有し、これからの参考にすることである。
(2016.4.23)