梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症」への《挑戦》・2

2.こちらの心構え
 「自閉症(スペクトラム)」と呼ばれる子どもや成人たちと「接し」、「かかわる」際の《心構え》について、いくつか述べたい。
⑴ 相手を「自閉症」だと思わない。
 相手を理解することは、「接し」「かかわる」際に、最も大切なことである。その方法は、まず直接、自分の目で見、聞き、相手を「感じる」ことである。相手は、名前を呼んでも返事をしない。話しかけても応じない。指示しても従わない。近づかない。その場を離れようとする。奇声を上げる。飛び跳ねる。体を揺する。耳をふさぐ。目をつむる。自分の手を噛む。そうした行動を見聞したとき、私たちはどのように「感じるか」、そのことを自分自身に問いかける必要がある。「困った」「どうしよう」「少し変だ」「ずいぶんとおかしい」と「感じる」かもしれない。次に「なぜだろう」と考えるかもしれない。そこまではよい。しかし、その答を早急に求めることは禁物である。また、専門家に尋ねても、「あなたのお子さんは自閉症の行動特徴をもっています。だから自閉症かもしれません」という答が返ってくるかもしれない。しかし、こちらが「困った」「どうしよう」「変だ」と「感じる」思いは、「自閉症だから」という答で、すぐに「消失」するだろうか。そこが問題である。「そうか、自閉症なんだ。ではしょうがない」と納得するか、それとも「では、自閉症はなぜそのような行動をするのだろうか」と、さらに専門家に尋ねるかもしれない。あるいは本を読んで勉強するかもしれない。しかし、そこから得られるものは「知識」に過ぎない。はじめの「感じ」が「知識」によって「固定化」してしまうおそれが生じるのである。「知識」は、自閉症の様々な行動特徴を説明している。その「知識」というフレーム(色眼鏡)で、相手と接し、かかわることが、相手を「理解する」ことだと錯覚してしまう。はじめの「感じ」は「知識」に変容し、相手の「人間としての息づかい」を「感じ取れなくなってしまう」ことはないか。
 名前を呼んでも返事をしない。話しかけても応じない。指示しても従わない。近づかない。その場を離れようとする。奇声を上げる。飛び跳ねる。体を揺する。耳をふさぐ。目をつむる。自分の手を噛む、などといった相手の行動は「自分にもある」と「感じる」ことが大切である。どのような時、自分はそのような行動をするか、振り返ればよい。それが相手を「理解する」ヒントになるだろう。加えて、相手にそのような行動を生じさせているのは「自分自身に他ならない」ことを省みるべきである。相手の行動を見聞して、「困った」「どうしよう」「変だ」と「感じる」ことへの答は、ゆっくりと時間をかけて、自分自身で出さなければならない。もし、「相手も自分と同じだ」と「感じられる」ようになれば、相手との距離は一挙に縮まるだろう。その行動を「困った」「どうしよう」「変だ」と「感じる」ことが減少し、逆に「親近感」が増すかもしれない。相手を「愛おしい」と「感じる」ようにになるかもしれない。そのことが「相手を理解する」早道なのである。 だから、相手を「自閉症」だと思わないことが《鉄則》である。 


⑵ 決してあきらめない
 相手のさまざまな行動を見て、「困った」「どうしよう」「変だ」と感じたとき、「なぜだろう」と考えることは当然である。専門家の見解を尋ね、文献を精査・精読するのもよい。しかし、そこで得られた「知識」、とりわけ「自閉症は治らない」という知識に従って「自閉症だからしょうがない」と諦めることは禁物である。
 相手は「自閉症」である前に「一人の人間である」ということを忘れてはならない。相手が「生きている限り」、「変化しない」(発達しない、成長しない、適応しない」と断定する(決めてかかる)ことはできない。「生きる」ということは「変化」することである。そして、自分も生きている。「生きている者」同士が、「接し合い」「かかわり合う」ことを通して、お互いの「関係」を、お互いにとって「より良い」(望ましい)方向へ「変化させていこう」という気持ち(固い意志)を持つことが大切である。
 相手は「変化」を求めないかもしれない。「変化」を拒否するかもしれない。しかし、その「行動」は、(身長が伸び、体重が増すように、あるいは成長が止まり、老化がはじまるように)刻一刻と「変化」しているはずである。それを見落としてはならない。同時に、こちらも「変化」する。こちらが、意図的に「変化」して相手の反応を見る。その営みを、粘り強く、執拗に「繰り返さなければならない」と私は思う。 
 「自閉症だからしょうがない」と諦めることは、こちらが「変化しない」ことを意味する。こちらが「変化」しなければ、相手も「変化しない」。お互いにあきらめて、「困った」「どうしよう」「変だ」と感じる行動にも「変化」は生じない。相手はますます「自閉症児・者」になっていく、自分は「自閉症児・者なのだ」と思うようになる。そしてその「行動特徴」と呼ばれる様々な「振る舞い方」を学んでしまうかもしれないのだ。この《悪循環》に陥らぬよう、細心の注意が必要である。 
 そのためにも「決してあきらめない」というこちらの心構えが不可欠である。


⑶ 相手を「あなた」として見る
 今、目の前にいるのは、「私と一緒にいる『あなた』だ」と感じることが大切である。こちらの立場が、親であれ、兄弟であれ、友人であれ、保育者であれ、教員であれ、専門家であれ、また相手が、乳児であれ、幼児であれ、学齢児であれ、青年であれ、成人であれ、この「原則」は変わらない。つまり相手は、今、私と接し、かかわっている「当事者」(第二者)なのである。当然、「私とあなた」の「かかわり」は《他人事》ではない。ともすれば、相手の「実態を的確に把握するために《客観的》見なければならない」などという誰かの言葉が気になって、相手を(自分とはかかわりのない)「彼・彼女」(第三者)として「見なす」ことはないか。それでは、相手を「理解」することはできない。
 今、多くの人が「自閉症」という言葉を知っている。また「自閉症児・者」と呼ばれる人を知っている。しかし、「知っている」だけに過ぎない。「わかってはいない」のである。とりわけ、専門家は、相手を「第三者」として見る傾向が強く、そのために「自閉症」の本態・要因を未だに究明できていないのが現状である。ある専門家は以下のような文章を残している。


◆「臨床家の仕事」
・臨床家の仕事はしろうと百姓の畑仕事に似ている。いつもはてしなくまごまごとした仕事があり、始終やっかいなわけのわからぬ問題がもちあがってくる。そのわけはいつもわからないし、うまく説明できない。親や家族は「どういうことですか、どうすればいいのですか、助けて下さい」と言い続ける。
・職業人、とくに臨床家は黙ってはいられない。「わからないので考えています」「まだよくわかっていないことなのです」「よかれと思うことをいっしょに考えてやっていきましょう」・・・。
・ほんとうはそこまでであろう。ところが世の中はそうなってはいない。やむにやまれず、知らないことまで教えようとする。教えているうちに、自分自身が暗示にかかる。その教えを身につけ、信じ、自分が本来知らなかったということを忘れていく。“わからないこと”を“わかっていないこと”だとしておく代わりに、わかっていないことの一面をとらえてそれに名まえをつけ「その名まえの意味していることがらの結果であることがわかってきた」と言い変えるのである。その名まえも通常きわめてsophisticatedなもので、生物学的・学習心理学的だったりする。たとえば、精神薄弱による言語発達遅滞、自閉的傾向、Rh-Child,精神ろう、先天性・発達性失語症、脳損傷、微細脳機能障害症候群、最近では心理神経学的学習障害などがその例である。
・しかし、それはしばしばおおかた虚構であり、実際の児童臨床にはそのままでは使いものにならない。
・それでも臨床家は、それに学び、それに頼るし、それに説明を捜し求めようとする。一方では、個々の子どもに即して、それぞれの好みに従って、自分なりに手さぐりしていく。
・そうしてひとつの臨床理論とおまじないにも似た技法体系ができてくる。これは、臨床家という百姓には宿命的なもののように思われる。(田口恒夫『言語発達の臨床第1集』・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)


 今から40年以上前の文章だが《“わからないこと”を“わかっていないこと”だとしておく代わりに、わかっていないことの一面をとらえてそれに名まえをつけ「その名まえの意味していることがらの結果であることがわかってきた」と言い変えるのである》という指摘は、今の現状にも十分当てはまる、ように私は感じる。
 専門家が、親や・家族にかわってその子どもを「理解」することなどできるはずがない。自分が得た知識や経験を「説明」するだけである。なぜなら、専門家にとってその子どもは「第三者」(他人)であり、「一緒に生活している」わけではないからである。だから、親や家族が専門家に「どういうことですか、どうすればいいですか。助けてください」と尋ねても、実は「わからない」のである。もし「わからないので考えています」「まだよくわかっていないことなのです」「よかれと思うことをいっしょに考えてやっていきましょう」と答える専門家がいたとすれば、その人は本当のことを述べている。「わが子のことをわかってくれるかもしれない」と信頼し、頼ってよい人ではないだろうか。


⑷ 相手の「好きなこと」「できること」「良いところ」を見つけ「素晴らしい」と感じる 
 相手を「理解」するためには、「できること」「良いところ」(長所)を見つけ「素晴らしい」と感じることが大切である。そのことが、相手の「能力」を開発し、可能性を発揮することにつながるからである。今、できること、好きなこと、良いところ、優れているところを見つけ、列挙する。反対に、今、できないこと、嫌いなこと、欠点も列挙する。双方を比べて、どちらの数が多いだろうか。前者の方が多ければ「素晴らしい」と感じる《べき》である。「そんなことができても役には立たない」「これができるのだから、あれもできなければならない」などと思うことは禁物である。後者の方が多くても、がっかりしたり、絶望したり、心配したり、諦めたりする必要はない。なぜなら、相手は「生きている」からである。「変化する」からである。
 こちらの「接し方」「かかわり方」によって、相手は「変化」することを《信じる》べきである。
 「できないこと」が「できる」ようになればよい、「嫌いなこと」が「好き」になればよい」、「欠点」がなくなればよい、ということだけを考えて、今ある「好きなこと」、「できること」「優れている」ことを見過ごしていることはないか。目が見える、耳が聞こえる、歩ける、水遊びが好き、ブランコが好き、歌をよく覚える、文字も読める・・・・、そのような「できること」「好きなこと」「優れていること」を見落としてはいないか。
「そんなことができたってしょうがない」と思わずに、相手の「好きなこと」をこちらも「好きになる」ことが大切である。また、「できること」「できないこと」を他人と比べることも禁物である。「あの子はできるのに、まだできない」「できるようになったとしても遅すぎる」などと思わないことである。「一年前にはできなかったが、今はできるようになった」ことを「素晴らしい」と感じることができるかどうか、そのことが、今、こちらに問われているのだ、と私は思う。 (2016.4.19)