梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・《13》第6章 自閉症はどこまでよくなるか(1)

《第6章 自閉症はどこまでよくなるか》
◎要約
【いろいろな見解】
・「予後が暗い」というのは一つの見方にすぎない。1970年にオゴーマンが「過去におけるわれわれの努力はおおかた経験的なもの(こじつけか、当てずっぽう)であり、大体において無効であった」と言っていることは、今日も少しも変わっていない。
・自閉症児一人一人みな違っている。回復の可能性も同じではない。
・精神分析学派(ベッテルハイムやラッテンバーグ)は楽観的な期待をもっている。それは、早期の心理的外傷体験を重要視しているため、環境的要因によって起こされたものなら埋め合わせができるのではと考える傾向があるからである。
・悲観的な見方の人々の研究方法は偏っている。(研究法の偏りと対象児の偏り:自閉症児全体を代表するようなサンプルになっていない)
・多くの精神科医は重いケースだけを見ている。また、ほとんどすべての精神科医は(非言語的)行動の観察について何の訓練も受けていないので、自閉症の原因として、つい何か「具体的」「生物学的」ないし遺伝的、あるいは「器質的」なものを求めようとしがちで、そうした「具体的」な欠陥が見つからなくても、今に見つかるだろうと思いがちである。
・自閉症児の正常行動は「マグレ」ではなく「潜在能力」であると考えた方が、真実に近い。
・治療士や教師の場合、自分が読んだ学者の意見に強く影響される。また、悲観論に傾くもう一つの理由は、失敗ということである。自分のやり方が不適当だと考えるよりも、子どもの潜在能力が低いせいにしたがる。
・親にも楽観論者と悲観論者がいる。悲観論者は自分の子どもを自閉症状態から引き上げるのに成功しなかった人たちで、気持ちの上でも自閉症は教育不能だと信じている人たちである。一方、回復した子どもたちの親たちは楽観論者である。
・教育可能性という問題は、今日まだまったく未決着の、いつも新しい目で見つめて行くべき課題である。
【教育可能性・・・われわれの考え方の本質】
《環境要因の脱線なら環境で治せる》
・自閉症という状態は、第一義的には乳児期早期における混乱体験(情緒的不均衡)によるものだとすれば、そのような環境要因によって「脱線」させられたものなら、環境を矯正すること(治療)によって、元の正しい軌道にもどしうるはずだ。
《現代西欧化社会になぜ多く発症するのか》
・工業化・都市化した欲ばりな競争社会は、人間の子どもが十分な発達を遂げるためには、一方では提供してくれるチャンス(教示による学習機会)が多すぎるのに、一方では(自由な遊びによる観察・模倣・体験学習の機会は)少なすぎることを示している。子どもの環境を適切に調整すれば、自閉的脱線を予防・修復できるのではないか。
《情緒的均衡の回復が最も効果的》
・もっとも効果的なのは情緒的均衡の回復に努力を集中した治療法である。(例・ウェルチ博士の治療法)
・現在行われている治療法を比較し、効果をあげているものの特徴を探ろうとしたが、①資料が多すぎる、②記述の内容が不備・不明確、③「統計的有意差がない」、④教育効果の評価が難しい、⑤忙しすぎて報告できない、などの理由で、(解明することは)今のところたいへん難しい。しかし、手持ちの情報を生かして使おうとする努力はするべきである。以下、その資料を紹介するしながら、有用な指導方針を引き出したい。
【効果的な治療を求めて】
《理論から求められるもの》
・①自閉症の本質、②その病因、③現代社会における心理的ストレス、に関する理解を踏まえて、自閉症児の教育方針を導き出す。
《強い不安とひきこもり傾向を減らすことが最重要》
・心の安定感をとり戻させるためには第一に「並はずれた母子的愛護」(ただし、ある程度のしつけや規則正しい生活をしながら)によらなければならないが、その仕事の一面として情緒的に幼い状態の子どものほうに親としての行動を合わせていく必要がある。子どもが「部分的な高い能力」をもっている面については年齢「以上」のレベルでつきあってやる必要もでてくる。
《避けたい対応の例》
・薬の使用(「薬物療法」「薬物投与」)は、可能なかぎり避けるべきである。
・子どものかんしゃくに対して言いなりなって、結果的にますます環境の同一性保持を強めてしまうのもよくない。
・ひきこもるにまかせたり、ますますひこもらせたりしているのもよくない。(「この子はこうしているのが好きみたいです」「ひとりで放っておけば機嫌がいいんです」)
・可能なかぎり子どもの「対人関係」を伸ばすことに主眼をおくべきである。(まず、人になつくこと、母親との間の情緒的結びつきを形成するところから始めるべきである)
《論より証拠》
・理論的にみてどの種の治療法が効果的である「はず」かと考えるのではなく、すでに行われている数多くの治療のうち、もっとも有効で「ある」のはどれかを調べるアプローチもある。もし理論と実際が符合した場合には、二つが相互に裏づけられたことになる。
・最良の結果を生んだ治療法は、われわれが理論的分析から導いた方法とよく符合する。・治療者自身は技能を教えて身につけさせることを主眼としている場合でも、良い結果を得ているのはいつも、子どもの情緒的均衡を向上させている方法であることがわかった。
《母子の絆の回復》
*ウェルチ博士の「抱きしめ」療法(この方法は他のいかなる方法よりもすぐれている)自閉症児の「母親」に、子どもをひざに向かい合わせに抱かせ(たとえ子どもが抵抗しても)抱きしめ、笑いかけ、語りかけ、頭や背中をなでたり叩いたりさせる。要するに、幼い赤ちゃんに対してふつうの親が、とくに子どもがむずかっている時などによくやっているようなことをするのである。自宅で一定期間、毎日かかさずやるようにさせる。
抱きしめを行うのは「母親」でなくてはならない。母親は、自分で抱きしめることを通して肝心なことが身につく。「抵抗の段階が終わってそれが積極的愛着行動に変わってくるまで続けることが肝心である。これには、初めのうちは何時間もかかることがある。母親がしばらく他のすべてを放り出して絶対あきらめない覚悟でとりかからないと、この治療は失敗に終わるおそれがあるだけでなく、「反対の結果につながりかねない」。子どもがかんしゃくを起こすとか、かみつくとか、おしっこをしてしまうとかすれば逃れられることに気がつくと、逆に、そういったやっかいな行動のほうが強化されてしまう。格闘している間中、母親は終始優しく、赤ちゃんをかわいがっている母親と同じようにふるまわなくてはいけない。(その中には困ったことをした時にはそれをたしなめることも含まれる!)これは母親だけでなく、父親にとっても兄弟にとっても大変なことである。しかし、ひとたび抱きしめの結果が愛着行動のほうに転換し始めると、母子ともに互いに積極的なフィードバックを相手に与え、相手からも受けるようになる。自閉症の「下向きのらせん」が、両者にとって「上向きのらせん」に変わってくる。子どもは話しはじめるというだけでなく、過去の外傷的出来事を思い出して言い出すことも、この方法の特徴である。
*自閉症から回復中の子どもはまだまだ傷つきやすく、長時間意気消沈してしまいがちであり、短時間の抱きしめを続けていくことが必要なだけでなく、大量の共感的励まし(「精神的支持」「精神的抱きしめ」)が必要である。
・ザスローとブレーガーの「抱っこ」と「怒り軽減」治療とは、抱くのが治療士か母親かという点で異なっているが、少しずつ「両親の参加」の方向に動いてきたらしい。J・アランの仕事も、その方向に動いており、ウェルチ法と類似している。
・各種の「心因論的考え方」の治療者が連携し合って治療法の洗練と向上に努めることを期待し、信じたい。


《感想》
 以上(ウェルチ博士の治療法)を読んで(特にウェルチ博士が著者に送った手紙(1978年8月17日付け)を読んだ時には)、私は不覚にも落涙してしまった。その内容の詳細は割愛するが、要するに、ウェルチ博士が「抱きしめ」による治療法を始めるようになったきっかけは、(担当する)自閉症の母親自身が、(わが子と同様に)博士に抱きしめられたい(安心したい、不安から逃れたい)と感じていたこと、そのことに気づいたとたん、堰を切ったように、それまで自分が母親に対して持っていた(抱きしめられたいという)感情があふれ出たこと、「母の日」に祖母が実際に体で娘を抱きしめたことが転機になったこと、その一日か二日のうちに自閉症の子がはじめてことばを話したこと、だったという件に、私は深く感動した。ウェルチ博士は、自閉症児の母親から、みずからの「治療法」を学んだからである。その柔軟な感性と実行力が今、多くの専門家に求められているのではないだろうか。さらに、私が思い浮かべたのは、日本における「抱っこ法」である。以下は、その入門書(「抱っこ法入門」・阿部秀雄・学習研究社・1988年)を読み始めた時の感想である。                            〈人の一生は「産声」から始まる。「産声」とは、肺呼吸が始まったことを現す証しに他ならないが、いわゆる「オギャーオギャー」というの「発声」のことである。以後、乳児は頻繁に「オギャーオギャー」という泣き声を発するようになる。親は、それを聞いて、乳児の状態を観察、授乳、おむつの取り替え、衣服の着せ替え等々の介護を行う。乳児は出生時のストレス、胎内から大気圧下への(生育)環境の変化によって、様々な「不快感」を感じる。それを「取り除いてほしい」と「泣いて」訴えているのである。このことは、人の一生を左右するほど重要な出来事である、と私は思う。(言うまでもなく、人は「誕生日」以前に生まれている。受胎から出生までの(いわゆる)「十月十日」、胎児として胎生期を過ごすわけだが、その間、順調に発育したか、安定していたか、十分に「快感」を味わっていたか。)人の(誕生後の)一生は、胎生期時代(胎内)の「安定・快感」を求めて、大気圧下の「不安定・不快感」を「取り除いてほしい」と訴えることから始まるのである。つまり、乳児はまず「不安定・不快感」を感じ取らなければならない。そして、それを「泣いて」訴えなければならない。昔から「寝る子は育つ」と言われているが、一方「泣く子は育つ」とも言われている。「不快感」の中には、空腹、おむつ、痛み、驚き、眠気等々が含まれているとすれば、双方は矛盾しない。いずれにせよ、乳児の発達はこの「不快感」から出発するということを見落としてはなるまい。「不快感」は、やがて「怖い」「淋しい」「悲しい」「つまらない」「むずかり」「嫌い」「いや」「嫉妬」「不満」「怒り」といった感情に分化していく。親は、そうした感情が、乳幼児の(円満な)発達にとって妨げになると思うかもしれない。しかし、それは誤りである、と私は思う。「楽しい」「うれしい」「おもしろい」「おいしい」「好き」「満足」といった「快感」は、「不快感」の裏返し(表裏一体)として生まれるからである。ややもすれば、親はその「快感」だけを与えようとしてはいないか。乳幼児が「静かにしている」「手がかからない」「おだやかである」「素直に従う」。そのことだけで満足してはいないか。例えば、紙おむつ、例えば哺乳びん、例えばベビーベッド、例えばベビーカー、・・・等々。「親の都合」で、「育てやすい子」にすればするほど、乳幼児の「不快感」は心中に押し込められ、表出されない。要するに「我慢」「辛抱」を強いられるのである。「我慢強い子」「泣かない子」「人見知りをしない子」「親の後を追わない子」、そうした乳幼児の中には、胎生期時代、十分な「快感」を味わえなかった、その「不安定・不快感」が今も続いている、しかもそのことを訴えることができない、また生後、「親の都合」で「快感」ばかり与えられ、「不快感」を訴える「機会」が失われた、といったケースがたくさんあるのではないだろうか。したがって、まず乳幼児に「不快感」を与えること、次に、それを「取り除いて」と親に訴えることができるようにすること、さらに、取り除いた後の「快感」を親と一緒に喜べるようにすること、が肝要である、と思った〉。 
 この「抱っこ法」という治療法が現在、日本でどのように評価されているかは不明だが、少なくとも「楽観論」的立場からのアプローチであることはだけ間違いないだろう。(2013.11.29)