梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・88

《言語訓練の意義》
【要約】
 喃語活動における母親の役割、音声模倣における母親の役割と同じことが、母子間の 命名についての音声接触でもあてはまる。まず母親からの積極的な音声的働きかけがある。実物のイヌのいるところで、母親がいつでもイヌと発声する。子どもがこの音声の特性に注意する一方、この音声の表示しようとしている非言語的カテゴリーをこの音声に連合する。そして直ちに子どもはこれを追って、イヌへの命名を試みる。ここに重要な習得過程がふくまれているのである。ブラウン(Brown,1958)によれば、それは、
⑴ 談話それ自体を範疇化すること
⑵ 等価の談話と別の談話とを識別すること
⑶ 談話の運動技能を習得すること
⑷ 表示対象を範疇づけること
 などからなる。このような訓練過程をブラウンは“オリジナル ワード・ゲーム”と名づけ、概念形成のおもな源泉とみている。それは、子どもが生活する文化において学習されなければならない認知目録を形成していくものでもあり、認知的社会化の主要な源泉でもある。
 幼い子どもにとっては、多くの場合、単一の命名で示唆される意味はあいまいである。たとえば、水の入ったコップを見せながら、ミズといってきかせるとき、子どもにとってその語が示唆するものは多様であり、つぎのいずれかであろう。
⑴ 容器としてのコップ
⑵ 運ぶものとしてのコップ
⑶ 中味の液
⑷ 液の高さ
⑸ 水の入っている状態
 ミズという語の正しい使用法を支配する非言語的属性の選択は、一つの名を与える行為ではほとんど不可能である。種々の側面からの種々の命名によって、その語の使用を支配すべき不変の刺激特性が発見され、これによってその語に対して適切な刺激特性が統合される。正しい語の使用がつねに期待できるのはその後のことである。
 語の意味の正しい理解は多側面からの表示を通じてはじめてなされ、ときには言語的文脈の助けを借りなければならないだろう。1歳期では多くを望むことはできないのである。 筆者の観察例(Y児)につぎのようなものがある。彼はコイという語をほとんど1ヶ月間“みどり色”の意味に使った。母親が街でYにはじめて鯉のぼりを見せたとき、これを指さして“あれはコイよ”と教えた。母親は、鯉の形に命名したつもりであったが、Yにとっては空に輝いてゆれ動く大きなみどり色の塊がコイであった。そのときからしばらくの間、彼はすべてのみどり色をコイとよぶようになったのである。
 この種の誤りは、子どもの類推活動の具体的な現れである。学習は単に“直接練習”のみによって生じるのではない。“われわれは例示を学習するのではなく、例示によって学習するのである”(Katona,1940)。1歳という幼い子どもにおいてさえ、このような類推活動が生じているのであって、この種の誤りは、人間に言語活動を形成させるその同じ能力の現れにすぎないのである。


【感想】 
 ここでは、母親による「言語訓練の意義」について述べられている。その訓練は、「正しい反応」を求めようとすると失敗する。試行錯誤することが重要であり、まず母子がその訓練(音声のやりとり)を「楽しめる」かどうかが最大のポイントであろう、と私は思う。著者のいうように「1歳期では多くを望むことはできない」からである。むしろ、子どもの「誤り」(あいまいさなど)を「かわいらしい」と感じられる「ゆとり」が、母親には求められるのではないか。訓練は「いいかげん」に行われるべきであり、“直接練習”にこだわる(正答を求めすぎる)ことのないように留意しなければならない。
 要するに、母親は「知的」「論理的」であるよりも「情的」「非論理的」(遊び的)感覚で子どもに接する必要があるということかもしれない。
(2018.9.27)