梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・85

18 育児語
【要約】
 母親が幼い子どもに向かって用いる語を“育児語”とよぶことにする。育児者が意図的ないし非意図的に、幼児に対してだけ用いる育児語を“特殊育児語”とよぶことにする。これは、子ども自身の発する音声の諸特徴をもっている。以下、特殊育児語の形式と機能を考察し、さらに日本語の育児語について概観する。
■特殊育児語の形成
 1歳期の幼児の母親の育児語には、幼児自身にも発音しやすい、幼児自身も通常発している音声パターンがたくさんふくまれている。これが特殊育児語であり、つぎの諸特徴をもっている。
⑴ 幼児の音声にみられる音韻転化その他の音声の歪みがある(例 オサラ→オチャラ)。
⑵ 音声パターンが単純で短い。
 ただし、単音節の育児語は少なく、“眼”はメメ、“手”はテテとなり、“火”や“歯”は、ヒー、ハーとなる。
⑶ オノマトペや反復形式が多い。
⑷ 音声的強勢ないし極端な音調を伴い、リズム的である。
 特殊育児語をその発生起源によって、つぎの3種に分類することができる。
⑴ 全国共通の型をもつものがある。ワンワン、ブーブーなど。
⑵ 一地域で共通に用いられるものがある。特殊育児語の方言といえる。
⑶ 特定の家庭で作り出される型がある。これは家庭語の源の一つである。
 特殊育児語は日本の社会に特有のものではなく、あらゆる人間社会に存在する。世界共通のものがオノマトペとしてかなり認められる。ワンワン対wauwau、カチカチ対tick-tack、シュッシュ対choo-choo、ニャー対miaw、モー対mauなど。
■ 特殊育児語の機能
 特殊育児語については無用論と有用論とがある。
無用論者のおもな論拠はつぎのようである。
⑴ 成人語を正しく発音するように訓練せず、成人のほうが子どもの不完全な発音を採用するのは、本能的な“弱い”母親のすることである。
⑵ 特殊育児語をいつも使っていると、子どもは正しい語を習得する機会を失い、またその動機づけをもつこともできなくなる。
⑶ 子どもは自分の音声パターンよりも成人の音声パターンのほうが良いことを信じている。したがって、手本は子ども自身の達している水準よりかなり高い水準のものを与えてよく、また、そうする必要がある。このことによって子どもはみずから新しい音声パターンを形成する機会をもつことができる。
 レオポルド(Leopold,1949)夫妻は、子どもに対して特殊育児語を用いることを意識的に避けたが、この子どもの幼児語は非常に少なく、それもきわめてすみやかに消失したという。この幼児の談話の発達進度は平均以下であったとみられる。これが二言語環境による結果なのか、特殊幼児語を与えなかったことと関係があるのかは、興味ある問題である。
 一方、特殊育児語有用論は、とりたてて強く主張されたことはない。同一視の傾向に基づく自然の結果だからである。談話の発生の基礎は人間相互の接触にある。この相互接触に動機づけられてこそ、伝達と社会的認知にとって不可欠な言語習得が行われる。子どもとの相互伝達が生じるためには、成人の側に子どもへの同調が生じることが必要である。なぜなら、幼い子どもには成人に同調するという能力はないからであって、成人のほうが子どもの能力水準に合わせる以外には、相互伝達活動は生じてこない。ここに特殊育児語の最も重要で積極的な意義が認められる。
 一般に育児語は、子どもの発達水準に即して選択されないかぎりは相互接触を促す働きをしない。
 初期の言語訓練では、個々の語形式の形成ということが主目的ではなく、記号(能記)によってカテゴリー(所記)を固定することについての一般的な把握を子どもにさせることにおもな目的がある。子どもにとって親しみやすく、興味があり、また自分でも生産できる記号がよい。オノパトペは、この目的によくかなっている。幼い子どもでは、自分自身の個人的で具体的な経験のなかに明瞭なよりどころのある事象以外は、関心の対象とはなりにくいのである。
 はじめから成人語を習得させるほうが能率的であろうと考える母親があるけれども、特殊育児語を一時利用することは迂遠ではない。特殊育児語の使用は、母子関係の自然の、また合理的な手順である。
 以上のような考察は、あくまで言語習得の最も初期にだけあてはまるものである。成人語の優勢化する1歳後期では、特殊育児語の役立つ場合はまれであり、成人語の発達と文の形成を妨げる結果を生じるに過ぎない。


【感想】
 特殊育児語とは、「育児者が意図的ないし非意図的に、幼児に対してだけ用いる育児語」のことだが、「無用論と有用論がある」という記述が、たいそう興味深かった。
 レオポルド夫妻は、無用論者であり、「子どもに対して特殊育児語を用いることを意識的に避けたが、この子どもの幼児語は非常に少なく、それもきわめてすみやかに消失したという。この幼児の談話の発達進度は平均以下であったとみられる」ということである。 私の知る「自閉症児」の育児者も、子どもに対して、はじめから成人語で接した結果、子どもの調音はきわめて成人語に近く、周囲も驚くほどであったが、言語を「伝達の手段」として用いることは稀で、ほとんど独り言に終始していた。レオポルド夫妻の子どもも「談話の発達進度は平均以下であった」とすれば、無用論の誤りは証明されていると、私は思う。 
 著者は有用論を強調しており、「談話の発生の基礎は人間相互の接触にある。この相互接触に動機づけられてこそ、伝達と社会的認知にとって不可欠な言語習得が行われる。子どもとの相互伝達が生じるためには、成人の側に子どもへの同調が生じることが必要である。なぜなら、幼い子どもには成人に同調するという能力はないからであって、成人のほうが子どもの能力水準に合わせる以外には、相互伝達活動は生じてこない。ここに特殊育児語の最も重要で積極的な意義が認められる」と述べている。私もその内容に、全面的に同意する。
 要するに、子どもの言語発達にとって、育児者の影響力は絶対的な影響力をもつ、ということである。では、育児者の「役割」とはどのようなものであろうか。 
(2018.9.23)