梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説「桜の森の満開の下」(坂口安吾)の《眼目》

 小説家・坂口安吾の作物に「桜の森の満開の下」という佳作がある。初出は1947年(雑誌「肉体」・暁社)だが、その後、映画(監督・篠田正浩、出演・若山富三郎、岩下志麻・東宝、1975年)や絵本(福田庄助・審美社、1990年)、コミック(近藤ようこ・小学館、2009年)等に作り替えられたり、英訳(ロジャー・パルバース訳・筑摩書房、1998年)されたりもしているので、かなり「有名」な作物に違いない。筋書は、(私の独断によれば)芥川龍之介の「藪の中」、あるいは映画「羅生門」(監督・黒澤明)の「後日譚」ともいうべき内容で、山賊が旅行中の夫婦を襲い、その女房を略奪するという話である。「藪の中」では、山賊と夫婦の「証言」(物語)が「三者三様」で、「真実は誰にもわからない」といった眼目が描出されていたが、この作物ではいたって明解、山賊は、女房の「美貌」に心打たれて、「ふと(夫を)斬り殺して」しまったのである。興味深いのは、その後の展開。山賊は思い通り女房を獲得、「この美しい女房を相手に未来のたのしみを考えて、とけるような幸福を感じ」たところまではよかったが、ままならないのは「世の常」、この女房、極め付きの「わがままもの」「物欲主義者」で、たちまち山賊を手玉に取り始める。①山道を歩けない、背負っていけ。②山賊の女房たちが目障りだ、斬り殺せ。③食べ物がまずい。④持ち物(装飾品、化粧品、衣装等)に触るな。⑤家具・調度品を作れ。⑥黒髪に触るな。⑦都に連れて行け。⑧都の邸宅に忍び込み、宝石や装身具を盗んでこい。⑨物だけでは足りない。「人の首」を取ってこい。極上の別嬪を手にしたつもりだった山賊、ここまでは女房の「言いなり」になってきたが、その結果として「報われるもの」は皆無、そのむなしさに絶望し家出する始末。「オレはおまえを愛している。だから、おまえの言うとおりにしてきたのに、おまえの欲望は果てしない。その欲望のために、オレは振り回されている。もう御免だ。オレは独り山へ帰る」と決心して帰宅、そのことを女房に告げたのだが・・・。女房曰く「どこへ行っていたのさ。無理なことを言ってお前を苦しめてすまなかったわね。でも、お前がいなくなってからの私の寂しさを察しておくれな」だと。「俺は山へ帰ることにしたよ」「私を残してかえ。そんなむごたらしいことがどうしてお前の心に棲むようになったのだろう」(中略)「だからさ。俺は都がきらいなんだ」「私という者がいてもかえ」「俺は都に住んでいたくないだけなんだ」「でも、私がいるじゃないか。お前は私が嫌いになったのかえ。私はお前のいない留守はお前のことばかり考えていたのだよ」(中略)「だって、お前は都でなきゃ住むことが出来ないのだろう。俺は山でなきゃ住んでいられないのだ」「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。私の思いお前にはわからないのかねえ」「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」(中略)「でもお前は山で暮らせるかえ」「お前と一緒ならどこででも暮らすことができるよ」「山にはお前の欲しがるような首がないのだぜ」「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」、といった二人のやりとりは圧巻である。最後の「殺し文句」で、山賊は狂喜、「女房はオレを選んだ。ついにオレが女房を支配できるのだ」と、勇んで帰山の途を辿り始めた。ところがである。あにはからんや、二人を待っていたのは、まさに「桜の森の満開の下」。そこでは誰もが味わう「人間存在の絶対的な孤独」、つまり、私たちは「独りでは生きていけない(と感じている)」、にもかかわらず「決して誰とも気持ちを重ね合わせることができない」(コミュニケーションの断絶、言い換えれば「社会的な死」)という「事実」を「思い知らされる」場所なのである。案の定、山賊は女房の「殺し文句」が本心ではないことを察知、最愛の伴侶を「絞め殺す」羽目になってしまったのである。「愛」とは所詮「欲望」の産物、相手を必要と感じている限り、決して「成就」することはない・・・、といったあたりがこの作物の眼目なのかもしれない。(2010.2.13)